<金口木舌>前田さんのバトン


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 漆の吸い物茶碗にナッツやアクセサリーが入っていた。裁縫箱として使う人もいた。前田孝允さんが漆芸家の道を歩み始めた復帰前、客の多くは米軍人だった

▼前田さんは「日本人は吸い物茶碗なら吸い物しか入れない。これはいけない」と語った。漆器が身近な場所で多様な使い方をされることを歓迎した。「工芸者は生活提案者でもなければならない」と
▼一方で漆の伝統技術を追求した。首里城復元の際、記録が残っていない色について調査した。中国や欧州を巡り、琉球併合(琉球処分)前後に流出したとみられる工芸品も確認した
▼1992年の首里城一般公開の際、鮮やかな朱色への批判も覚悟したという。ただ「沖縄の太陽の下ではこの色しかない」と本紙に語っている。時代によって主流となる色調は変化したが、高温多湿で紫外線の強い沖縄では華やかな朱色が際立つと結論づけていた
▼気候に恵まれて発展した琉球の漆文化は、1609年の薩摩侵攻後に衰退したとされる。そして沖縄戦で首里城は焼失し、記録も失われた。復元は沖縄の人々が経てきた、世替わりの歴史を塗り込むような作業だったのだろう
▼生活者の視点から漆の歴史を掘り起こした前田さんが亡くなった。昨年焼失した首里城は再建に向けた動きが本格化する。前田さんが残したバトンを引き継いでいかなければならない。