<金口木舌>1万人の1人として


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 15日付本紙に県助産師会元会長の奥松文子さんの訃報が載った。沖縄市上地で長年、助産院を営んだ。1982年に黄綬褒章を贈られた時、30年で1万人の赤ちゃんを取り上げたと本紙は報じている

▼私事で恐縮だが、筆者は55年前、奥松さんに取り上げてもらった。コザ市の時代だ。生まれた時は3200グラム。おかげで元気に育った。亡き奥松さんに感謝している
▼戦争が医療の道に進むきっかけをつくった。兄が中国で戦死したという知らせを受け、戦地で傷ついた人を看護したいと決意した。沖縄陸軍病院に志願し、沖縄戦で傷ついた兵士を看護した
▼戦場で虫の息となった兵士から「お母さん」という言葉を幾度も聞いた。奥松さんの看護を受け、後に米軍の宣撫(せんぶ)班となった兵士に「今度は私が助ける番です」と説得され、投降した。日本が降伏した後の45年9月のことである
▼陸軍病院の医師や看護師らの証言集「閃光(せんこう)の中で」に手記を寄せている。「戦争の大きな試練で得た生命の尊さと反戦平和の願い」を支えに福祉事業に打ち込みたいと記した。戦後の歩みを決めたのも戦争だった
▼戦場で悲惨な死を見つめてきた助産師は、赤ちゃんに命を吹き込むという任務を自らに課したのだろうか。命のリレーの媒介者として。訃報に接し、1万人の1人は、奥松さんにつないでもらった生命の重さを感じている。