金口木舌(2011年5月25日)

 1996年4月23日、沖縄市の中部市町村会の事務所に首長13人が顔をそろえていた。その11日前に発表された普天間飛行場の全面返還合意で、移設先を県内とされたことに対する市町村会の方針を決めるためだ

▼「『米国内に移すべきだ』『やまと(県外)に持っていってもらおう』という考えが多かったが『基地の痛みを沖縄以外の国内に移していいのか』という議論もあった」。沖縄市長だった新川秀清さんは振り返る。自身は県外ではなく米国移設を主張した
▼要請文では県内を拒否し、移設先を「日本本土及び米国領アジア太平洋地域」と示したが、方針に反して次々と県内ばかりが候補に挙がった。新川さんは9月16日、嘉手納、北谷両町と嘉手納統合案反対の三市町連絡協議会を発足させ、翌日来県した橋本龍太郎首相に受け入れ拒否を伝えた
▼橋本首相は移設に時間がかかることを感じ、こうつぶやいた。「返還時期を5年から7年という年限にして良かった」。楽観すぎた。15年を経ても返還は実現せず、4、5年周期で首長が会長を務める三連協の人事は今月19日に一巡した
▼現在も嘉手納案など県内移設ばかりが浮上する。第3次嘉手納爆音訴訟原告団長を務める新川さんは持論だった「国外」を取り下げ、こう思い始めている
▼「66年押し殺された沖縄の痛みを日本国民が分かるには本土移設しかない」。