<社説>沖縄サミット20年 課題いまだ解決されず


社会
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 8カ国の首脳を招いて開かれた主要国首脳会議(沖縄サミット)から21日で20年となる。日本初の地方開催となったサミットは無事成功し、沖縄が国際的なリゾート地へと発展していく契機となった。

 だが開催時に日米両政府が約束した沖縄の基地負担軽減は進んでいない。IT機会の万人への提供、感染症対策、遺伝子組み換え食品の安全性、紛争予防、核軍縮進展、ミサイル拡散抑制など、サミットの共同宣言が列挙した多くの懸案と同様に、沖縄の重い課題も残されたままだ。
 沖縄サミットは各国首脳と県民の交流事業なども活発に行われた。NGO(非政府組織)センターが初めて設置され、沖縄のうとぅいむち(おもてなし)の心を内外に広く発信する機会となった。その後の観光客の飛躍的増加を後押ししたことは間違いない。
 県産品の販路拡大にも追い風となった。ホスト役を務めた稲嶺恵一元知事は、サミットで県民が誇りと自信を確認できたと述懐している。沖縄の近現代史の節目となり、県民のアイデンティティー形成にも影響したと言えよう。
 ただ20世紀最後のサミットに際して多くの県民が期待したのは、基地問題解決に向けた進展だ。その沖縄サミットでのハイライトは、米大統領として1960年のアイゼンハワー氏以来の沖縄訪問を果たしたクリントン氏による「平和の礎」での県民向けの演説だった。
 演説で大統領は「沖縄は日米の同盟関係維持のために死活的な役割を担ってきたが、沖縄の人々が自ら進んでこの役割を果たしてきたわけではない」と述べた上で「沖縄におけるわれわれの足跡を減らす(reduce our footprint)ため、できるだけの努力をする」と約束した。
 大統領の発言は96年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告で合意した沖縄の負担軽減策の着実な実施を約束するものだった。
 だがその目玉だった普天間飛行場や那覇軍港の返還はまだ実現していない。県内移設が条件とされたためであることは明らかだ。
 沖縄滞在中、大統領は米兵らに直接「沖縄の良き隣人たれ」と規律徹底を命じた。だがその後も事件事故などの基地被害は絶えない。足元では、米軍内での新型コロナ集団感染への対応を巡って不安や不信が高まっている。20年間で県民生活への「足跡」が減ったとは到底言えまい。
 併せて指摘したいのは日本政府の姿勢だ。沖縄に偏る日米安保の負担を全国で公平に分かち合うという熱意は、残念ながらサミット開催をピークに冷めていったのではないか。「寄り添う」といった言葉とは裏腹に、永田町や霞が関と沖縄の距離はむしろ当時より広がったように見える。
 サミットで県民が強く訴えたのは平和を希求する沖縄の心だった。開催の意義を踏まえ、世界に問い続けたい。