<社説>学徒合同碑建立へ 「歴史の真実」伝える場に


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 沖縄戦のさなか、強制的に戦地へ駆り出された旧制中学校の生徒のうち、ある者は砲弾に倒れ、あるいは飢えに苦しみ、「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた者もいた。志半ばで生を閉じた若者のことを次代に語り継ぐことは、今に生きる世代の義務である。

 こうした「学徒隊」の事実を継承しようと、県は全21校の校名、所在地、戦没者数を銘記した合同石碑を糸満市の平和祈念公園内に建立する。
 元学徒らが何年も前から願っていた合同碑が実現する。県の判断を歓迎すると同時に、次世代への継承に向け、県と元学徒が協力して知恵を出し合うことを望みたい。
 県の「沖縄戦継承事業」としてまとめられた「戦場に動員された21校の学徒隊」によると、動員数は生徒1923人、教師64人。そのうち亡くなったのは生徒981人、教師37人だ。有名な「ひめゆり学徒隊」(沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校)はじめ、本島北部から宮古・八重山まで動員された学徒は県内全域にわたる。
 だがその存在全てが知られているわけではなく、県によると慰霊塔があるのは15校だ。元学徒の高齢化も進み、慰霊塔の管理も難しくなるだけに合同石碑の建立は急がなければなるまい。
 当時の兵役対象は17歳以上だが、学徒隊には14~16歳の生徒が含まれていた。林博史関東学院大教授(現代史)の研究によると、1944年10月と12月の陸軍防衛召集規則の改正で「志願すれば」14歳以上も兵役に編入可能となった。
 保護者などの承認が必要とされたが、手続きに関する証言はほとんどなく、少年少女を半ば強制的に動員したのが実態だろう。
 学徒に駆り出された男子生徒は死を覚悟しての斬り込みや砲弾の下を伝令に走り、看護要員の女子生徒は軍が足手まといとみれば戦場のまっただ中に放置された。
 戦場に行く必要のない生徒を死に追いやったのは、国のために死を強要した皇民化教育であり、沖縄を本土決戦の「捨て石」とし、住民を根こそぎ動員した国策だ。過ちを繰り返さないためにも、合同石碑を通して「学徒隊」の真実を伝えたい。
 県の沖縄戦継承事業では多機能携帯電話(スマートフォン)で動画による証言集も見られる。こうした事業とも連動し、追悼にとどまらず、学習の場としても合同石碑を位置付けてもらいたい。