<社説>勝連城銅貨出土 歴史のロマン、解明に期待


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 琉球の城(グスク)時代の海外交易に光を当てる発見だ。うるま市の勝連城跡で、3~4世紀のローマ帝国や17世紀のオスマン帝国時代のものとみられる銅貨が出土した。

 国内の遺跡からは初の出土だ。14~15世紀に盛んな海外交易を展開した琉球の祖先たちが東アジアだけでなく西欧や中近東とも何らかのかたちで接点があったことを示唆する。世界の交易史に新たな視点を生む可能性がある。
 勝連城は「おもろそうし」に「肝高(ちむたか)」(気高い)とうたわれた阿摩和利の居城で、東アジアとの交易で財を蓄えたことが知られている。しかし、今回は沖縄から約1万キロも離れた地中海地方、中近東の遺物だ。誰が、どうやって勝連城跡に持ち込んだのか。何に使われたのか。謎が謎を呼ぶ発見だけに、解明するための研究が待たれる。
 今回、勝連城跡の四の郭から出土した10点はすべて鍛造(たんぞう)(金属をたたいて成形)された直径1・6~2センチの銅貨だった。そのうちローマ帝国の銅貨は14~15世紀ごろとみられる造成土層から出土した。地層の年代は同じ層から出土した中国産の磁器などの遺物から推測した。皇帝コンスタンティウス1世の肖像などが刻まれている。
 勝連城跡ではこれまでも中国の古銭や磁器類が出土しており、海外貿易の拠点として発展したことを示している。今回見つかった遺物は、ローマ時代の銅貨が勝連城築城の600~700年前に造られたもので、琉球はまだ貝塚時代後期だった。逆にオスマン帝国の銅貨は勝連城が廃城となった後の17世紀ごろの製造だ。
 これだけ幅広い年代の「お宝」を集めた理由は何だったのだろう。専門家は宝物の扱いや供え物だった可能性に言及する。グスク時代やそれ以降、琉球王国にお宝を集められる財力や交易力があったことがうかがえる。現在の通説よりも琉球人の文化や海外との交流は広く、活発だったのかもしれない。
 15世紀の尚泰久王の時代に造られた万国津梁の鐘にある「舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津粱となし、異産至宝は十方刹に充満す」(船を操って世界の架け橋となり、珍しい宝は国内に充ち満ちている)を地でいくような今回の発見だ。夢やロマンが膨らむ歴史の謎を、現代の英知で解明してほしい。