<社説>国頭住民虐殺 さらなる証言の発掘を


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 戦後71年が経過しても、沖縄戦の傷跡は今もなお人々の心に刻まれ、癒えることがない。国頭村制100周年を記念して発刊された村史「くんじゃん-国頭村近現代のあゆみ」で、日本軍による住民虐殺の新事実が明らかになった。

 大宜味村渡野喜屋(現在の白浜地区)で約30人が犠牲となった事件をはじめ、住民をスパイ視した日本兵による住民虐殺の記録は県内各地に残されている。しかし国頭村での住民虐殺は研究者ですら「これまで聞いたことがない」(安仁屋政昭沖国大名誉教授)という。
 国頭村での日本兵による住民虐殺は、従来の村史や県史などに一部抽象的な記述があったという。新村史は目撃者の証言から具体的な場所や状況を記録した。これまで語ることのなかった証言者らに、忌まわしい記憶をたどってもらうのはつらい作業であっただろう。それだけに、戦争体験者が残してくれた貴重な証言を次の世代がしっかりと継承しなくてはならない。
 新村史によると、虐殺は3件あり、少なくとも9人が亡くなったという。日本軍にスパイの疑いをかけられたものが大半だが、収容所で一時的に保護されただけでスパイ視したケースもあった。
 爆発物で家族が死傷した桃原の事件は、日本軍が人違いで襲撃した可能性も示唆されている。山中に避難する人々を説得して、下山を勧めていた男性が日本軍にスパイ視されており、被害に遭った家族はこの男性と間違われたのではないかとしている。
 国頭村に限らず、本島中南部からの避難民や地元住民が混在していた北部3村(国頭、大宜味、東)では食料不足が深刻で、敗残兵による食料や家畜の略奪も頻繁に起きていた。加えて米軍が早期に収容所を設置し、住民に食料を与えていたことなどが、住民を差別する日本兵の疑心を招いた。
 こうした状況が住民虐殺の背景にあった。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓は、国頭新村史の証言でも改めて確認できたといえよう。
 県内にはまだ多くの事実が埋もれている可能性がある。2017年発刊予定の新沖縄県史「沖縄戦」編纂(へんさん)に当たり、さらなる証言の発掘が必要となろう。戦争体験者が高齢化し、記憶の継承は重要な課題だ。未来を築くためにも歴史と向き合い、発掘する努力が現在の世代に求められている。