<社説>対馬丸慰霊碑 歴史繰り返さぬ継承を


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 戦時下で米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑が、生存者や犠牲者が漂着した鹿児島県奄美大島の宇検村船越(ふのし)海岸に建立された。

 「奄美にも沖縄戦の悲劇があったことを忘れず、次世代に継承したい」(元田信有村長)と費用を予算化した宇検村、実行委員会を組織し取り組んだ地元関係者に深く感謝したい。
 除幕式に沖縄の遺族、生存者、地元関係者が出席した。犠牲となった沖縄側、悲劇の現場の奄美の方々が対馬丸事件の史実と教訓を共有し、胸に刻んだ意義は大きい。
 これを契機に改めて対馬丸事件の歴史的な意味を問い直したい。
 対馬丸は1944年8月、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、学童775人を含む1418人(氏名判明分)が犠牲になった。
 県関係の戦時遭難船舶は26隻に上る。44年に16隻が集中し、その一つが対馬丸だった。米軍は日米開戦直後から日本船舶への無制限攻撃を開始した。日本軍が民間の船舶を軍事徴用したため、民間船舶の沈没が激増していた。
 対馬丸は日本軍の兵員・物資を沖縄に降ろして後、学童らを乗せて出港し撃沈されたのである。
 米軍は日本軍の無線を解読し、対馬丸の動きを把握していた。一方、沖縄守備軍は「南西諸島近海で敵潜水艦の活動が活発化。供給を断つことを重要視しているとみられる」と東京に打電していた。
 沖縄近海の危険さを日本軍は察知しながら対馬丸を出港させ、米軍は見境のない無制限攻撃で対馬丸を撃沈したのである。
 攻撃した米潜水艦の元乗員は「商船に見せ掛けた軍艦かもしれない。(商船が)軍事物資を積むこともある」と証言している。
 民間の船舶を日本軍が軍事に徴用、軍事輸送の遮断を米軍が最優先した「軍隊の論理」が、対馬丸の惨事を招いた。慰霊碑を歴史の教訓を伝える証しとしたい。
 宇検村では「慰霊碑建立記念企画展『対馬丸と奄美大島』」を開催中だ。多くの人々が足を運んで歴史の教訓を学んでほしい。
 「歴史は繰り返す」と言われる。政府は防衛計画大綱と中期防衛力整備計画に基づき、宮古島、石垣島、奄美大島に陸上自衛隊警備部隊などの配備を計画している。
 二度と戦争の犠牲にはならない。歴史を繰り返さぬ記憶の継承と行動を沖縄と奄美が共有したい。