<社説>ハワイ捕虜慰霊祭 国の責務で遺骨収集を


この記事を書いた人 琉球新報社

 沖縄戦で捕虜となり、移送先の米ハワイで亡くなった県人12人を弔う「ハワイ捕虜収容所県出身戦没者慰霊祭」が、ホノルル市で初めて開催された。

 12人は激烈な沖縄戦から生還したが、移送先で病気やけがによって命を落とした。遺骨の行方も分からなくなっている。慰霊祭実行委員会共同代表の渡口彦信さんは、追悼あいさつの中で、不明遺骨の早期収集に取り組む必要性を訴えた。
 しかし、遺骨を捜す作業は民間では限界がある。2016年4月に戦没者遺骨収集推進法が施行された。「国の責務」で24年度までに集中的に遺骨収集を進めることが明記されている。情報収集や遺骨の送還などの実務は、新たに国が指定する法人が担う。厚生労働省は12人の遺骨も収集の対象にして、家族の元に返す責任がある。県の協力も必要だ。
 沖縄戦で捕虜となりハワイに移送された県人は約3千人に上る。1945年から46年にかけ、オアフ島のサンドアイランド収容所やホノウリウリ収容所で生活していた。米軍の命令で軍施設や公園などの清掃、工事現場の雑役に従事させられた。抑留期間は長い人で1年半に及んでいる。
 県人捕虜の収容所は多くの県系人の住宅に隣接していた。県系人は収容所内外で捕虜を気に掛け、物心両面で支援していたという。
 証言によると、同郷の身を案じた県系人が訪れ、弁当やたばこを差し入れした。傷ついた心を音楽で癒やしてもらいたいと、三線を届ける人もいた。収容所のフェンスの下を擦り抜けて、捕虜におにぎりなどを差し入れた子もいた。
 ある県系人はトラックを運転していた米兵と交渉して、乗っていた捕虜10人に豚肉料理など古里の味を振る舞ったという。
 ハワイの県系人は、沖縄戦で焦土と化した沖縄の窮状を聞いて救済運動に立ち上がったことで知られる。自分たちも乏しい暮らしの中から、食料や衣類、薬品、さらに豚やヤギまでも沖縄へ送り届けた。この時、海を渡った豚550頭は4年で10万頭になった。これが戦後沖縄の畜産の基礎となった。
 しかし、敵国に連行され、不安を募らせていた捕虜たちを県系人が支えたことは救済運動ほど知られていない。
 ハワイの捕虜の記録は個人的な文書としてはあるが、沖縄戦の記録から抜け落ちている。証言や資料写真が少なく、移送された理由など未解明な点が多い。
 ハワイへの捕虜移送の実態と県系人の交流を公式な沖縄戦記録として残すべきだ。そのために1次資料の発掘と、高齢となっている証言者の聞き取りを急ぎたい。
 今回初の慰霊祭を開催した。これで終わりではなく、今後は県も関わって慰霊祭の開催を検討してほしい。

英文へ→With first memorial service for Okinawan POWs in Hawaii, Japan is obligated to collect remains of fallen