<社説>本島上陸70年 軍は住民を守らない この教訓を忘れまい

 70年前のきょう1日、米軍は沖縄本島に上陸した。米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる、とてつもない悲劇がここに始まった。

 沖縄戦の最大の教訓は「軍隊は住民を守らない」である。これは抽象的なスローガンではない。無数の実体験、戦場の実際によって立証された事実である。
 こう言い換えてもいい。「軍隊がいると住民は犠牲になる。とりわけ、心の底では住民を同胞と思っていない軍隊が一緒にいると、住民はむしろ死を望まれる」。この教訓を忘れまい。

出血持久戦

 米軍はまるで「ピクニックのように」無血上陸した。日本軍がそういう作戦を立てたからだ。
 作戦とは、本土決戦の準備が整うまで、米軍を一日でも長く沖縄に引き付ける「出血持久戦」(帝国陸海軍作戦計画大綱)である。
 一日でも長引かせるため、米軍上陸時に日本軍は兵力を温存した。その結果の無血上陸なのだ。
 上陸時、沖縄戦の見通しを尋ねた小磯国昭首相に対し、大本営はこう答えている。「結局敵ニ占領セラレ本土来寇(らいこう)ハ必至」(「大本営陸軍部戦争指導班の機密戦争日誌」)。最後は占領されると分かっていながら沖縄戦に突入したことになる。
 住民が多数いる沖縄にあえて敵軍を上陸させ、最後は占領されると知りながらなるべく長くとどめようとする。こんな計画のどこに住民を守る視点があるか。住民保護の意識は決定的に欠けていた。
 上陸のこの日以降の戦没県民は判明分だけで10万4千人に上る。沖縄戦の県民の戦没者の9割だ。無謀な沖縄戦に突入しなければ、助かったはずの命はかくも多かったのである。
 この上陸の後、読谷のガマなど各地で強制集団死(「集団自決」)の悲劇が発生した。それもまた軍の方針の反映だ。「軍官民共生共死」である。
 沖縄戦に先立ち、軍部は中学生を含む住民に壕を掘らせ、戦争準備を強制していた。従って住民が投降すれば、どこに司令官がいて、どこに武器弾薬があるか、敵軍に知られてしまう。だから住民が生き残るよりは住民の全滅を願う。「むしろ死を望まれる」とはそういう意味だ。強制集団死はその結果である。
 その後も、多くの住民が助かりそうな局面はいくつかあった。しかし日本軍はことごとく、住民を死に追いやる方向を選択した。

同胞扱いせず

 例えば中部戦線の第1防衛ライン(嘉数高地)が突破され、第2防衛ライン(前田高地)も破られた5月上旬。ここまでに日本軍は主力の7割を失った。まともな判断があれば戦闘継続は不可能と分かる。だが投降しなかった。これ以降の沖縄戦はもはや戦闘ではない。虐殺だ。
 激戦地のシュガーローフも奪われ、首里の司令部が維持できなくなった5月22日。第32軍は玉砕か南部撤退かを議論したが、「南の果てまで戦う」と決めた。この時、南部には避難住民10万人がいた。住民を巻き込むのを知りながら、否、むしろ巻き込むつもりで撤退を選択したのだ。
 これ以降、日本軍による食料強奪、住民の壕からの追い出し、壕内で泣く子の殺害が頻発する。「出血持久戦」でなければ無かった悲劇だ。果ては方言を話す住民をスパイ扱いしての殺害も起きた。住民を同胞扱いしない軍との同居の危険がここに顕在化した。
 今、日本政府は辺野古新基地建設を強行している。知事も地元市長も県議会も市議会も反対する中での強行は、他県ではあり得ない。まさに「同胞扱いしない」政府の姿である。
 沖縄戦体験者の4割は心的外傷を持つとされる。その傷口に塩を塗り込むように、沖縄では70年後も米軍機の爆音がまき散らされ、新基地建設は強行される。われわれは今も悲劇の中を生きている。