<南風>沖縄の産業まつりの歩み


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 1975(昭和50)年に本土復帰記念事業の一環として沖縄国際海洋博が開催された。空前の予算規模で開催したにもかかわらず、来場者数は想定よりはるかに少なく、県経済への相乗効果もほとんどなかった。かえって県経済は企業の過剰投資で大きな混乱を来し、翌76年には倒産が続出した。

 沖縄の産業まつりがスタートしたのは、その翌年の1977年である。この年は復帰5周年、第1次沖縄振興計画の後半に入る時期でもあった。未曾有(みぞう)の不況を乗り越えるには、まず沈滞ムードを吹き飛ばす必要があった。県と産業界は議論を重ねた結果、官民挙げての地場産業振興イベントの開催が有効との意見で一致し、産業まつりの開催となった。

 第1回の出展者数は、わずか75社だった。第2回以降は回を重ねるごとに出展者が増えていき、昨年の第39回には522社にまで増大した。

 第12回の頃に沖縄ブームの兆しが出る。標語を「沖縄発本土行き」と掲げて、見本市や商談会など県外販拡事業を推進した。その後、県外で県産品に人気が出始め、「ちゅらさん」のテレビ放映で沖縄ブームに火がつくと、まつりにも県外企業や自治体からの視察者が急増した。

 第30回頃から団体での出展が増えてくる。その中で、県商工会主催の「ありんくりん市」は、各地の地場産品が魅力として、圧倒的な人気エリアに成長した。6次産業化の集大成である。

 産業まつりは今年40回目の節目を迎える。記念事業として「海洋産業特別展」を実施する。「スケルトニクスロボット展」や「EV(電気自動車)展」も人気が出そうだ。今年は見応えがある。ぜひ足を運んでいただきたい。同時に、世界のウチナーンチュ大会で来沖している同胞の参観も心から歓迎する。
(桑江修、沖縄県工業連合会専務理事)