<南風>出会いから陶芸の道へ


社会
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 ハイタイ、とぅんじてぃちゃーびたる我(わ)んねー、北中城アランナぬ、國吉安子やいびーん。かにてぃからまちかんてぃそういびーたる、そうぐゎちん、いいなけえうわてぃ。

 新年明けましておめでとうごさいます。

 いきなり小那覇舞天の「すーやーぬパーパー」ばりのあいさつで失礼致しました。冒頭のうちなーぐちは「はじめまして、突然でございますが、私は北中城村安谷屋の國吉と申します。待ちかねていましたお正月もあっと言う間に終わり、新年…」と続きました。

 さて、私は四十数年来、やちむんさーをなりわいとして歩んでまいりました。行きたい道があったのですが、ある出会いがきっかけになり、読谷で陶芸を始めることになりました。出会った相手は栃木県益子町で陶芸の修行を終え、読谷で窯を開いたばかりの國吉清尚でした。

 彼は陶芸を生涯の仕事と決め、読谷村をその場として選択していました。以前は、喜名焼で栄えた読谷ですが、1968年、清尚氏が移り住んだその頃は、村内に陶器工房は一軒も無く静かな場所でした。私は最初の出会いから4回目に彼をパートナーと決め、ひと月後には、結婚して陶芸を手伝う生活が始まっていました。清尚が26歳、私は22歳でした。

 あれから四十数年、いろいろなことがあり、今に至っております。現在も娘の真由美と二人三脚で相変わらずの「やちむんさー」生活です、土と炎に魂を翻弄(ほんろう)されるように生きた國吉も今や黄泉の人。私たちの姿を目を細めて見守っていることと信じています。

 「南風」に書くことになり、肩に力が入ります。頑張って力を抜き、書いていきたいと思います。私の目線にしばしのお付き合いをよろしく。ここで川柳を一つ。

「来し方の 戻れぬ日々を ペンに乗せ」
(國吉安子 陶芸家、「陶庵」主宰)