<南風>産業遺産・第五福竜丸


社会
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 第五福竜丸は、最初は近海のカツオ一本釣り用の船として造られ、第七事代丸(ことしろまる)といった。神奈川県三崎を母港に1947年3月に進水した。敗戦後の社会は大変な食糧難、みな栄養失調で、“たんぱく質が足りないよ”という言葉がはやったとか。動物性タンパクは魚に頼るしかなく、たくさんの木造漁船が造られたのだった。

 戦争中には漁船も軍務のために徴用され多くが犠牲に、全国で約半数が失われたともいわれるが、正確な隻数や漁船員の死者数などは分からない。

 平和な海が戻り、漁業が再開できると勇んだ漁師たちに立ちはだかったのは、連合国による占領政策だった。当初は近海での操業しか許されない。しかも米ソの対立、東西冷戦が進む中で、米軍による浜での軍事演習が漁民たちを悩ませたという。

 遠洋漁業が解禁になったのは52年4月末、サンフランシスコ講和条約の発効でマッカーサーラインと呼ばれた漁業制限が撤廃された。事代丸は前年に遠洋マグロ船に改造され、53年春には静岡県焼津の船主に売却、第五福竜丸と命名される。「福をもたらす竜」、海難事故への無事を祈り、大漁を願ったのだろうか。その1年後にビキニ水爆実験に遭遇する。

 このころカツオ・マグロの木造漁船は約800隻あった。戦後の一時期を担い、勇躍赤道海域まで出漁したのは10年ほどの期間だったそうで、大型の鋼鉄船へと移っていく。今、福竜丸のような大きな木造船は造られることはない。遺(のこ)されたただ1隻の船なのだ。

 東京都は「遠洋漁業に出ていた木造船を実物によって知っていただく」と展示趣旨を位置付けている。まさに産業遺産としての第五福竜丸と言える。

 建造から70年、人間でいうなら古希を迎えた船をぜひ仰ぎ見ていただきたい。
(安田和也、東京都立第五福竜丸展示館主任学芸員)