<南風>厨子甕介した浜田庄司氏との縁


社会
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 上間に厨子甕(ずしがめ)を集めている青年がいると、浜田庄司氏が國吉清尚を訪ねて来た。清尚22歳、益子に行く前、壺屋の小橋川永昌の下で修業をしていた頃だ。浜田氏は益子に工房を構えていたが、冬になると寒い益子から沖縄に移動し、1カ月ほど壺屋で制作していた。日本民芸館館長もしていた浜田先生は世界中の品をコレクションするほどの骨董好きで知られていた。

 片や國吉清尚は高校生の頃から古い陶器に興味を持ち壺や陶器の破片等を集めていた。中でも厨子甕には特別魅せられていた。戦後沖縄が混沌(こんとん)としていた時期、放置された使用済みの古い厨子甕がたくさん見つかっていた。それらが彼の所に自(おの)ずと集まってきた。魅力的な厨子甕に心底夢中になっていた。出会ってからの浜田先生と清尚は古い厨子甕を奪い合うように買ったり、交換したり、見せ合って自慢したりしていた。

 そんな男と結婚し一緒に住み始めた私の家には常に直径50センチ、高さ80センチほどの四角い家形や丸い甕形の厨子が10基ばかり大切に置かれていた。もちろん使用済みのそれである。

 その頃、日本民芸館や浜田邸に渡った厨子甕のほとんどは國吉の目を通過したものだった。私は家の中にいても厨子甕を壊さないように大変に気を遣った。ある日、彼が真顔で話した。私が一緒に住む以前のこと、彼は読谷の家を留守にして那覇の実家に泊まったらしい。当然、その夜読谷の家は厨子甕だけで誰もいない。

 翌日になり帰宅した彼が庭にいると、隣のおばぁが話掛けてきた。「ぬぅが兄さん、昨日は気分が悪かったの? 一晩中、るうにいそうたしが(苦しそうな声がしていたけど)」と…。おいおい清尚さん、それ本当ねえ~嘘でしょう?

 川柳を一句

 物言わぬ 遺物が語る いにしへを
(國吉安子 陶芸家、「陶庵」代表)