<南風>属性と個性


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄で父と二人暮らしを始めた頃、少なくない方に「在日(朝鮮人)の方だから、やっぱり儒教の精神が根付いてるね」「在日(朝鮮人)の方は、目上の人を敬うよね」などと言われることがありました。

 現に私はそのような環境で育ったとも思いますし、このご時世で「朝鮮人だから…」の後に悪口が来ないだけでもありがたいのですが、私としては「儒教の精神を重んじなければいけない」という意識というよりは、単に「父と共に暮らしたい」という気持ちで一緒に住んでいたので、そのように言われることに少しばかりの違和感を抱きました。

 その違和感についてもう少し深く考えてみると、私という個人や私の個性にスポットが当たっていないというか、私が持つ属性(この場合は「在日朝鮮人」という側面)に、個人や個性が吸収されてしまっていることに違和感が残るようです。

 しかし、立ち止まって考えてみると、私自身も普段、「在日朝鮮人という存在は…」などと、自分が持つ属性の方にスポットを当てて自分自身を語ることが多くありました。私自身も、いつの間にか私という個人や個性を、私の属性の方に吸収させてしまっていたのです。

 私という「個人」は、在日朝鮮人等の「属性」と共に、私にしかない「個性」を有しているはずなのに、です。

「在日朝鮮人」「外国人」「何県出身者」「性的少数者」など、人が持つ属性にスポットを当てて何かを語るとき、そこには具体的な個人がいて、その人にしかない個性があり、そして、人としての心があり、かけがえのない人生があるということを、私たちはついつい忘れがちです。

 そんな問題意識から、私はとあるプロジェクトを始めることにしました。
(白充、弁護士)