移り住んだ経緯は前回に書いたので省かせてもらうが、私たち家族3人のハワイでの陶芸生活が始まっていた。
國吉清尚は空手の仲間との出会いもあり、昼は陶芸、夜は友人たちに空手を教えてと、沖縄と同じ陶芸と空手を両立させていた。
私は夕方5時から10時までハワイ大学近くのステーキハウスで働いた。
2歳の娘は家の近くにベビーシッターを見つけた。預ける時「マ―ミ、早く帰って来てね」と涙をこらえ、たどたどしく言いながら脱いだ草履をそろえた。絞り出すような小さな声に送られた。私も涙をこらえた。
店では私たち5人のウエートレスは着物を着て働いた。店はいつも忙しく、着物姿で走り回った。
ウエートレスは全員日本人で、ハワイに憧れて来ていた若者だった。沖縄から来た人もいて働きながら大学やビジネススクールに通っていた。皆、夢を抱いてハワイで頑張っていた。貞子さん、操さん、由美子さん、明子さん、その後いかがお過ごしですか。まだハワイですか。日本に居ますか。結婚しましたか。
ウエイターをしていた台湾出身のシュ―君はハワイ大学の学生で弁護士を目指していた。店では鉄板焼きのグリル洗いなど、他人が嫌がる仕事を率先してやっていた。
小走りし、働きながら彼はいつも小さな紙を丸めては広げていたので、そっとのぞいてみたら英語辞典の1ページだった。
聞いてみると、毎日1枚破いて来てその日で覚えて捨てるのだと言った。
油と水で汚れた小さな紙切れとグリルを持って、店内を走り回っていた色白のシュ―君、今どこで何をしていますか。きっと目標を達成していることと信じている。
「時を経て 懐かしき人増えゆきて 此の頃出会う 友に重なる」
(國吉安子 陶芸家、「陶庵」代表)