<南風>北島角子先生を偲ぶ


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 出会いは2004年ごろ、角子先生は空き巣被害に遭い宜野湾署を訪れた。当時副署長の当方は、何やら足腰が辛(つら)そうなお姿を見てソファに招き入れ、被害届を出してもらった。以後、濃密とはいかないまでもお付き合いいただいた。当方は畑いじりが趣味なので、度々宜野湾市のお宅に野菜を届け、大層喜ばれた。

 その後糸満署に転勤する際は、琉歌の色紙をいただいた。「行ちゅる先方(さきかた)に 警察ぬまくと 知らち御勤(うちと)みん ちばいみしょり」。年末に睦稔カレンダーを送付するたび必ずお礼の架電をいただいた。昨年は架電もなく、ちょっと前にラジオの「民謡で今日拝(ちゅううが)なびら」も降板されていたので、体調がお悪いのだろうと気にしていたのだが。

 「私は南洋から引き揚げる際、魚雷攻撃で九死に一生を得た。戦争では友人があまた死んだ。生き残った私が平和の尊さを訴えなかったら、あの世に行った時友人たちに叱られる」と常々おっしゃっていた。もちろん方言なのだが。また、旅役者の父親が八重山公演に来た時、白保一の美人だった母ちゃんに惚(ほ)れて私が生まれたとも自慢していた。

 角子先生もそうだったが、戦争を体験された方々はそうでない人々とは決定的に違うものを強く感じる。筆舌に尽くしがたい辛い思いをしただけに、平和の尊さを強く激しく感じられるのだろう。換言すれば、現在の日本の政治家に戦争体験者がいないことが乱暴な政治になっていると思われる。つまり、危険なことを危険だと認識できないのでそうなるのだろう。

 司馬遼太郎に限らず、戦争体験者が来沖する際、相当の覚悟を持って来沖したのは、沖縄に対する贖罪(しょくざい)意識がのど元の棘(とげ)となったからだ。それに呼応するかのように角子先生は持てる才能の全てを平和に捧(ささ)げられて、天に召された。沖縄は至宝の一つを失った。
(渡具知辰彦、県交通安全協会連合会専務理事)