<南風>久保山さんへの手紙


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 久保山愛吉氏は午後6時56分逝去せられた。ラジオニュースから国立第一病院栗山副院長の悲痛な声が流れた。水爆実験による被ばくから207日目の9月23日、3人の幼い娘を遺(のこ)しての40歳の死だった。

 東大病院と国立第一病院で懸命の治療を受ける乗組員には全国から見舞いの手紙が多数届いた。福竜丸展示館には久保山さんの遺族から託された3千通の手紙がある。母港焼津の静岡県から600通、汚染魚を多数水揚げした高知県や東京300通、被爆者、引揚者、巣鴨の戦犯拘置所、戦没者遺族からも。平和が脅かされることに心痛め、家族を慰め励ます手紙がつづく。

 その中に「琉球八重山郡大浜町」(現石垣市)からの手紙がある。1954年12月15日の日付、文面には「戦場と化した琉球住民としてみれば、単なる爆弾や砲弾等だけでもあんな惨めな結果を生んだのに、それに勝る原子爆弾、水素爆弾の威力を新聞雑誌等で見ただけでも、今後の戦争の残酷さが偲(しの)ばれて、悲しい気持ちでいっぱいになったのであります。戦争の犠牲となって山野に骨をさらしている同胞の悲惨な姿を目のあたりに見ては、悲しい涙に明け暮れたのであります」と沖縄戦の記憶をつづる。

 2004年開催の「寄せられた手紙」展の折、琉球新報は差出人を探し出した。本人は亡くなられていたが、ご子息のコメントが紹介された。「父は沖縄戦時、警察官として避難民を誘導、数多くの遺体が転がる痛ましい光景を話していた」。

 久保山さん遺族にはアメリカなどから弔慰金がでたことで、やっかみ、脅迫めいた手紙が届いたことが報じられたりもした。石垣の手紙は、「誰がなんといおうと強く生きてください」と結ぶ。思いやる人の心根とともに、戦争や横暴さを拒否する意思は、時代を突き抜けて今とつながり、手紙からたちのぼる。(安田和也、第五福竜丸展示館主任学芸員)