沿革












































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































明治26年 (1893) 9月15日 沖縄最初の新聞「琉球新報」が創刊。尚順(しょう・じゅん)が社長、太田朝敷(おおた・ちょうふ)が編集担当。紙面はタテ35.6cm、ヨコ28.5cmで4ページ建て、隔日刊。社屋は那覇西村123番地。
明治36年 (1903) 12月20日  琉球新報10年記念会と新築落成式(南陽館)。
明治39年 (1906) 4月1日 日刊となる。
明治末期 渡久地政瑚(とぐち・せいこ)が社長となる。
大正3年 (1914) 4月25日 紙齢5000号を数える。
大正6年 (1917) 9月 創刊25周年記念行事として、マラソン競争、自転車遠乗り競争などを行う。
大正7年 (1918) 11月 渡久地政瑚社長が死去。嵩原安佐(たけはら・あんさ)が社長に就任。
昭和4年 (1929) 5月 太田朝敷が社長に就任。
昭和12年 (1937) 7月 那覇市松山町1-3(西武門)の新社屋に移転。
昭和13年 (1938) 11月25日 太田朝敷社長が死去。平尾喜一(ひらお・きいち)が社長に就任。
昭和15年 (1940) 1月 又吉康和(またよし・こうわ)が社長に、平尾喜一が理事長に就任。株式会社としての組織を固める。
12月20日 政府指導により「琉球新報」は沖縄朝日新聞、沖縄日報と統合、新たに「沖縄新報」を設立。沖縄戦中も発行を続ける。
昭和20年 (1945) 5月25日 首里城陥落とともに終刊。
7月26日 「ウルマ新報」(のち「うるま新報」と社名変更)が発刊さる。社長に島清(しま・きよし)が就任。
昭和21年 (1946) 9月 社長に瀬長亀次郎(せなが・かめじろう)が就任。
昭和24年 (1949) 8月17日 社長に池宮城秀意(いけみやぐすく・しゅうい)が就任。
昭和26年 (1951) 8月24日 社長に又吉康和が就任。
9月10日 サンフランシスコ平和条約締結を機に社名を「琉球新報」に改める。
昭和28年 (1953) 1月1日 共同通信社とニュース提供で契約。
9月22日 又吉康和社長が死去。親泊政博(おやどまり・せいはく)が社長に就任(11月17日)。
昭和29年 (1954) 2月24日 那覇市美栄橋区御成橋通りに新社屋が落成、移転。
3月1日 同日付から夕刊も2ページ発行。
昭和36年 (1961) 2月16日 日本新聞協会に入会。
昭和38年 (1963) 4月10日 親泊政博社長が死去。池宮城秀意が後任社長に(5月11日)。
昭和40年 (1965) 1月 那覇市下泉町2-8に地上4階、地下1階の新社屋が落成、移転。
昭和41年 (1966) 4月1日 琉球新報社の提唱で「ノグチゲラ」を県鳥に選定。
12月20日 琉球政府と共催で県木選定運動を提唱「リュウキュウマツ」を県木に選定。
昭和44年 (1969) 5月 春闘がこじれ5月20日から6月3日まで新聞発行を停止。
昭和46年 (1971) 6月23日 社屋を6階建てに増築(総面積7,129,99平方メートル)。
昭和47年 (1972) 6月1日 共同通信社に会員社として正式に加盟。
昭和49年 (1974) 12月25日 池宮城秀意社長が会長に、長嶺彦昌(ながみね・ひこしょう)副社長が代表取締役社長に就任。
昭和52年 (1977) 4月1日 購読料を1,000円から1,400円に改定。
昭和53年 (1978) 10月15日 中国漁船団の尖閣諸島領海侵犯の写真報道で日本新聞協会賞を受賞。
昭和54年 (1979) 6月30日 池宮城会長、長嶺社長が退任、代表取締役専務・伊豆見元一(いずみ・げんいち)が代表取締役社長に就任。
8月19日 九州・沖縄地区では初の超高速カラー・オフセット新聞印刷輪転機を設置。
10月7日 朝刊から連日多色カラーの報道写真を掲載。
昭和56年 (1981) 6月24日 旧来の鉛組み版の新聞製作工程から、コンピューターと光学処理の印字方式によるコールドタイプ・システム(CTS)へ全面移行。
7月18日 全国に先がけて紙面の文字を大型化し、従来の1段93行、1行15字詰めの文字配列体裁を1段90行、1行14字詰めに改める。
9月20日 日本新聞協会第1回「新聞広告賞」の新聞社企画部門で、広告企画「20歳の発言」が奨励賞受賞。
11月 発行部数15万部を突破、県内占有率50%を超える。
12月7日 全国初の朝夕刊連日カラー印刷となり、天気図を朝夕刊カラー化(全国初)。
昭和57年 (1982) 4月16日 朝夕刊に気象衛星「ひまわり2号」が撮影したカラー気象写真を掲載(全国初)。
7月30日 6万390株(1株500円)30,195,000円を増資、この結果、株式総数19万4,590株、資本金97,295,000円。
9月1日 工務局を制作局と印刷局に2分、販売局発送部を印刷局に組み入れる。
10月20日 日本新聞協会第2回「新聞広告賞」の新聞社企画部門で広告企画「食生活と豆腐」が前年に続いて奨励賞を受賞。
昭和58年 (1983) 5月27日 R字開発により新聞の基本文字をさらに拡大、1行13字詰めに。
9月1日 株式会社琉球新報開発を設立。
9月8日 コンピュートサイン(電光表示板)設置が沖縄県屋外広告物審議会で承認される。
9月15日 創刊90年。
12月1日 電光ニュース点灯式。
昭和59年 (1984) 3月1日 名護市に北部本社を開設。伊江島、宮古、八重山、久米島など離島でも、夕刊の即日配達を実施。
8月1日 購読料を1,400円から2,000円に改定、宮古島有線テレビ、石垣ケーブルテレビと新報ニュースの提供契約。
昭和60年 (1985) 4月1日 週刊「レキオ」を発刊。浦添支局を開設。
4月28日 第1回全日本トライアスロン宮古島大会を共催。
5月1日 株式会社「週刊レキオ社」を設立。
昭和62年 (1987) 8月15日 JCJ(日本ジャーナリスト会議)奨励賞を受賞。
昭和63年 (1988) 3月22日 「第19回日展沖縄展」開催。
4月23日 連載企画「沖縄農業の最先端」で国吉克俊記者が農業ジャーナリスト賞を受賞。
6月29日 伊豆見元一社長が退任、親泊一郎(おやどまり・いちろう)が代表取締役社長に就任。
平成2年 (1990) 7月1日 「新報スポニチ」を発刊。
8月24日 「世界のウチナーンチュ大会」の「空手道・古武道世界交流祭」を主催。
平成3年 (1991) 1月 「ケラマジカ群の夜間撮影に成功」で九州写真記者協会賞受賞。
4月1日 北部本社を北部支社に、福岡支局を福岡支社に名称変更。
4月1日 基本文字を面積で12%横に拡大し、1段12字82行から80行へ。
平成4年 (1992) 1月 写真部が3年連続九州写真記者協会賞受賞。
4月1日 パレットくもじに「なはパレットボード」開局、浦添支局が支社に昇格。
9月23日 紙齢30,000号数える。
11月1日 購読料を2,370円(消費税込)から2,800円(消費税込)に改定。
平成5年 (1993) 9月15日 創刊100年。
10月9日 第2土曜日付夕刊廃止。
平成6年 (1994) 9月15日 これまでの縦題字を横題字に変更。
10月20日 日本新聞協会第14回「新聞広告賞」の新聞社企画部門で、広告企画「岩手34・36号種モミ委託栽培」が奨励賞を受賞。
11月1日 購読料を2,800円(消費税込)から3,100円(消費税込)に改定。
平成7年 (1995) 11月15日 県主催「第2回世界のウチナーンチュ大会=11月15日~11月19日」で県からイベント企画製作の業務を受託。
平成8年 (1996) 5月24日 琉球新報社のホームページ開設。
6月26日 親泊一郎が取締役会長に、宮里昭也(みやざと・あきや)が代表取締役社長に就任。
7月25日 編集企画「異議(平成9年(1997)申し立て 基地沖縄」が第1回新聞労連大賞、JCJ奨励賞。
10月 ハイサイ沖縄リーグ(プロ野球教育リーグ)開催。
平成9年 (1997) 2月19日 台湾最大の発行部数を誇る中国時報社と記事交換協定を結ぶ。
9月30日 新組版システム稼動(トータル新聞製作システム完成)
平成10年 (1998) 4月1日 データベースを構築、インターネットを通して一般公開。
10月12日 那覇市天久に本社制作センター着工。
10月15日 キャンペーン「検証 老人デイケア」報道で日本新聞協会賞受賞。
平成11年 (1999) 11月15日 那覇市天久に制作センター完成。
平成12年 (2000) 7月21日 沖縄サミットを報道、社内横断体制で取り組む。
8月15日 平和祈念資料館展示変更問題報道でJCJ賞。
平成13年 (2001) 1月3日 1975年以来、25年ぶりに1月3日号発行。
1月12日 18年ぶりに増資、資本金が192,322,500円。
3月1日 文字拡大を実施。基本文字を面積で13.66%拡大し、1段12字80行から1段11字77行に。
平成14年 (2002) 4月13日 石垣島トライアスロン大会を共催。
5月1日 編集局がワシントンDCに契約駐在記者を配置。
7月11日 沖縄デジタルアーカイブで本紙の「空手・古武道」採択される。
平成15年 (2003) 1月24日 連載企画「軍事基地と住民」で新聞労連ジャーナリスト大賞受賞
4月1日 編集局と制作局を統合。報道本部、編集制作本部、メディア本部の3本部制で新編集局が始動。
9月15日 創刊110年。
11月11日 グローバリゼーション・フォーラムでゴルバチョフ元ソ連大統領ら日・米・露・中・韓の政治家、識者が那覇に集う。
平成16年 (2004) 6月25日 比嘉辰博(ひが・たつひろ)が20代社長に就任
8月14日 日米地位協定改定キャンペーンでJCJ大賞受賞
平成17年 (2005) 3月15日 那覇市天久に新社屋完成
4月20日 天久新社屋に琉球新報新聞博物館が開館
9月7日 戦後60年企画「沖縄戦新聞」で新聞協会賞受賞
10月5日 戦後60年企画「沖縄戦新聞」で石橋湛山賞受賞
平成20年 (2008) 1月11日 「集団自決をめぐる教科書検定問題」報道で新聞労連ジャーナリスト大賞受賞。
3月17日 1ページの段数を約半世紀ぶりに変更、12段制に。紙面文字を拡大。
6月26日 比嘉辰博社長が退任、高嶺朝一(たかみね・ともかず)が代表取締役社長に就任。
8月25日 編集局に政治部と経済部を新設。経済面を週3ページ増。
9月17日 琉球新報池宮城秀意記念賞贈呈式が行われる。
11月1日 日本経済新聞の受託印刷が始まる。
平成21年 (2009) 2月28日 最後の夕刊を発行、55年の歴史に幕。
3月1日 朝夕刊統合に伴う「新朝刊」がスタート。
5月 2008年7月に発刊されたラッピング広告「環境特集『知ろう!エコろう!』」が第27回沖縄広告協会広告の部で金賞受賞
平成22年 (2010) 4月1日 印刷製版時にフィルムが不要となるCTP(コンピューター・トゥ・プレート)の運用を開始
6月25日 富田詢一(とみた・じゅんいち)が22代社長に就任
7月7日 普天間問題取材班の『連載「呪縛(じゅばく)の行方」を中心とする「普天間問題」のキャンペーン報道』が第53回JCJ賞を受賞
11月25日 第16回平和・共同ジャーナル(PCJF)賞奨励賞にワシントン特派員の与那嶺路代記者を選出
平成23年 (2011) 1月9日 新報小中学生新聞「りゅうPON!」の発行開始
1月27日 高知新聞と連携した「普天間飛行場問題の本質に迫る報道」が第15回新聞労連ジャーナリスト大賞を受賞
6月13日 編集局にNIE推進室を開設
9月26日 長期連載「それぞれの歩幅で~発達支援を考える」が第30回ファイザ一医学記事賞優秀賞を受賞
12月2日 連載「ひずみの構造―基地と沖縄経済」が第17回平和・協同ジャーナリスト基金賞の奨励賞受賞
平成24年 (2012) 1月13日 「米軍普天間飛行場の返還・移設問題をめぐる沖縄防衛局長による不適切発言報道」が第16回新聞労連ジャーナリスト大賞受賞
4月1日 週刊レキオ社を吸収合併
編集局メディア本部と総務局電算部を再編統合しデジタル戦略室を設置
7月11日 「沖縄防衛局長の『オフレコ』暴言スクープをはじめとする米軍普天間飛行場移設問題をめぐる一連の報道」が第55回日本ジャーナリスト会議賞を受賞
9月3日 創刊120年事業の一環として出資した映画「カラカラ」が第36回モントリオール世界映画祭で観客賞、オープネス・トゥ・ザ・ワールド賞を受賞
9月27日 連載「住民と共に生きて―復帰39年医療保健の足跡」が第31回ファイザ一医学記事賞の優秀賞受賞
10月4日 西日本新聞社と「緊急時における新聞発行の援助に関する協定」を締結
12月1日 木下大サーカスを開催。2月3日まで
平成25年 (2013) 1月10日 オスプレイ報道で第17回新聞労連ジャーナリスト特別賞を受賞
8月15日 米アカデミー賞監督オリバー・ストーン氏を招いて講演会開催
本社ビル壁面に電光掲示板「りゅうちゃんボード」を設置
9月15日 創刊120年
10月16日 山陰中央新報との合同企画「環りの海」が日本新聞協会賞受賞
平成26年 (2014) 1月10日 本紙企画「沖縄の不条理を突く 4・28『主権回復の日』に関する一連の報道」が第18回新聞労連ジャーナリズム優秀賞受賞。
本紙連載「原発事故とウチナーンチュ・本紙記者レポート」、「A級戦犯ラジオ番組で語る」(記者交流先の高知新聞で担当)で当銘寿夫記者が第8回疋田桂一賞を受賞。
3月25日 本紙、新報スポニチ、電子新聞読者にTポイントサービス提供を決定。先行受付開始
4月1日 消費税率が8%に改定されたことにより購読料を2,990円から3,075円に改定。
6月26日 経営戦略局を新設。総務局経営企画室を統合。
12月13日 本紙連載「日米廻り舞台―検証フテンマ」が平和・共同ジャーナリスト基金(PCJF)賞を受賞。
平成27年 (2015) 1月28日 本紙企画「『普天間・辺野古問題』を中心にこの国の民主主義を問う一連の報道キャンペーン」が第19回新聞労連ジャーナリズム大賞を受賞。
4月1日 広告局・販売局・事業局を再編統合し、営業局と読者事業局を新設。
5月18日 沖縄タイムス社と提携し、北部地区の販売店への新聞等の共同配送を開始。
7月1日 日本農業新聞の受託印刷を開始。
7月11日 沖縄県と米ハワイ州の姉妹都市締結30年を記念して、ハワイで移動編集局を開催。
8月15日 「『普天間・辺野古問題』を中心にこの国の民主主義を問う一連の報道キャンペーン」が日本ジャーナリスト会議賞(JCJ賞)大賞を受賞。
10月21日 「沖縄の自己決定権を問う一連のキャンペーン報道~連載『道標(しるべ)求めて』を中心に~」が第15回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。
平成28年 (2016) 1月22日 沖縄2紙への報道圧力問題へのキャンペーン報道で第20回新聞労連ジャーナリズム大賞の特別賞を受賞
1月26日 子どもの貧困問題を取り上げた報道を機に県共同募金会と連携して「りゅうちゃん子どもの希望募金」を開始
5月26日 2018年春の完成を目指す那覇市泉崎の新本社ビルが着工
7月10日 台湾の新聞社「中國時報」の協力を得て沖縄観光タブロイド紙41万部を台湾で初発行
7月15日 女性や若者向けの話題を発信する新たなウェブサイト「琉球新報style」の配信スタート
9月1日 経済上の理由で大学進学が困難な生徒を対象とする「琉球新報奨学生制度」を創設
9月23日 「子どもの貧困」取材班が「貧困ジャーナリズム賞」を受賞
平成29年 (2017) 4月 新聞を活用して仕事力向上に役立てるNIB(Newspaper in Business=ビジネスに新聞を)講座を開設
3月28日 移動遊園地や遊具レンタルなど子ども向け事業を展開する⑭キッズビレッジ社を完全子会社化
5月11日 第35回沖縄広告協会広告賞の新聞企画連合部門で「2016サッカー沖縄キャンプ特集」(2016年1月23日付別刷)が金賞に選出
6月30日 新報料理講習会や食育フォーラムなど、長年にわたり県民の食生活の向上を目指した各種事業などが評価され、「第1回食育活動表彰」の「消費・安全局長賞」を受賞
10月23日 沖縄タイムス社と共同で次期輪転機を購入し、印刷業務を協業することで基本合意に達し、基本合意書に調印
12月23日 宮城隆尋記者の「連載『民族の炎』をはじめとする自己決定権をめぐる報道」が新聞労連ジャーナリズム大賞の第12回疋田桂一郎賞を受賞
平成30年 (2018) 3月1日 本社主催の新報サイエンスクラブが文部科学省の「青少年の体験活動推進企業表彰」の奨励賞を受賞
4月24日 那覇市泉崎に606人収容のホールを備える新本社ビル落成。コンセプトは「沖縄の情報の発信拠点」「伝統文化、芸能の継承発展」「感動の懸け橋=階(きざはし)」
5月7日 新本社ビルでの業務スタート。天久社屋を琉球新報天久ビルと改め、テナントビルに改装した
5月25日 落成式典・祝賀会が盛大に催され、翁長雄志県知事はじめ各界から約千人が出席
6月26日 富田詢一社長が代表取締役会長に、玻名城泰山(はなしろ・やすたか)が代表取締役社長に就任
9月16日 県出身歌手・安室奈美恵さん引退に関連して新本社ビルで開催した企画展が2万6400人余りを集めて終了。社屋正面の窓の一面を使って安室さんの写真を掲示し、県内外で大きな反響を呼んだ