<未来に伝える沖縄戦>軍国教育で兵士に憧れ 与那城剛さん(85)〈上〉


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与那城剛さん(左)の沖縄戦体験にメモを取りながら耳を傾ける金武中3年の古波蔵豊君(中央)と比嘉百亜さん=2015年12月22日、金武町の並里区事務所

 金武町並里区に住む与那城剛さん(85)は戦時中、日本軍の食糧運搬のために金武村(現金武町)から宜野湾村(現宜野湾市)まで馬車を引くなどの体験をしました。当時は軍国教育でとにかく兵隊に憧れていたという与那城さんは、教育の本来あるべき姿を語り掛けます。金武町立金武中学校3年の古波蔵豊君(15)と比嘉百亜さん(15)が話を聞きました。

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 《戦時下の教育は軍国教育一色でした。与那城さんも友人も、みんなが軍隊に憧れていたといいます》

 代々、金武村に住んでいました。7人きょうだいの5番目の次男で、兄は私が小学1年の時にフィリピンに出稼ぎに行っていました。
 1944年から、私より一つ上の先輩からは護郷隊(地元の青少年で構成されたゲリラ部隊)に入って戦場に出て行きました。
 軍国教育は「命は惜しくない」という教育で、死にに行くようなもの。戦争のことしか教えられません。学校では勉強もできずに竹やり訓練などをしていました。あの時だからね、竹やりで本当に敵を倒せると思ってやっていましたよ。今考えたら、大きなアメリカと小さな日本が戦争して、(国は)何を考えていたんだろうと思いますよ。
 「(戦争がなければ)本当は何がしたい」という希望もありませんでした。当時はとにかく兵隊に、特に志願兵に憧れていました。「軍人は素晴らしい」との考えが植え付けられていたし、上官(将校)の着ている服を見ると憧れがありました。
 近所のお兄さんが准尉(士官学校を出ていない人がなれる最高階級)で、刀を下げて帰省してきていました。そんなのを見ると余計に兵隊に憧れてね。

 《戦争にまい進する国を支援するため、一般の人々も食糧の供出などを命じられました。日本軍が村役場に来て品目の受領と要求をしました。与那城さん一家もたくさんの食糧を差し出したため、満足な食事ができませんでした》

※続きは1月9日付紙面をご覧ください。