<未来に伝える沖縄戦>マレー作戦に参加 松田栄喜さん(94)〈上〉


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日本兵としてマレー作戦に参加した松田栄喜さん(左端)の話に耳を傾ける石川高校の畔上詩菜さん(中央)と山城緋里さん=19日、読谷村楚辺

 読谷村楚辺に住む松田栄喜さん(94)は18歳の時に日本兵に志願し、旧満州(中国東北部)やマレーシア、シンガポールに出征し、九死に一生を得ました。シンガポールで負傷して除隊後は軍属として沖縄戦に巻き込まれ、中南部を命からがら逃げ回りました。今でも胸に砲弾の傷跡が残る松田さんの体験を石川高校の畔上詩菜さん(18)と山城緋里さん(18)が聞きました。

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 《日中戦争が始まり、兵隊は名誉で、兵隊でなければ恥ずかしいという時代でした》

 1940年2月、古堅尋常高等小学校(現古堅中学校)を卒業して字の佐事(用務員)を勤めた後、18歳になったわたしは陸軍に志願し、徴兵検査で甲種に合格して福岡の久留米の第18師団に入隊しました。3日後には満州派遣が決まり、門司港から出航しましたが、4月ごろ久留米に戻され、少年兵教育を受けた後、一等兵に昇進しました。
 40年9月ごろに再び門司港から南支(華南)に行きました。そのころは、歩兵第56連隊第6中隊にいました。第56連隊は久留米から満州、満州から南シナ海に派遣されました。
 41年12月2日、海南島三亜港湾に40~50隻の艦船が集結していました。米軍が沖縄に上陸した時のように、海いっぱいに日本軍の艦船があり、日本はすごい国だと思いました。わたしたちの部隊は綾戸山丸、佐倉丸、淡路山丸の3隻の船に乗っていました。船内でわたしは兵長に昇進しました。海南島を出発したわたしたちは、大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦した41年12月8日、マレー作戦でマレー半島のコタバルに上陸しました。

※続きは1月23日付紙面をご覧ください。