<未来に伝える沖縄戦>軍の命令で南部に 松田栄喜さん(94)〈下〉


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日本兵だった時代や沖縄戦での悲惨な体験を語る松田栄喜さん=19日、読谷村楚辺

 《シンガポールの戦闘で負傷し、1943年に沖縄に戻った松田栄喜さんは、古里の読谷山村(現読谷村)楚辺の青年団長として戦没者や出征兵士の留守宅への奉仕活動を続けていました》

 当時、地元の男性のほとんどが防衛隊として召集されていました。わたしは召集されないために、当時建設が進んでいた北(読谷山)飛行場の守衛に応募し、軍属として働くことになりました。
 44年10月ごろ、空襲がひどくなり、家族は読谷の楚辺クラガー(暗川)に避難しました。米軍が沖縄本島に上陸した45年4月1日、わたしは楚辺の自宅にいました。自宅から見えた海は米軍の艦船で真っ黒でした。

 《軍属の松田さんは軍の命令で家族と離れ、その日から南部に行くことになりました》

 わたしは一晩かけて首里の石嶺まで行き、その日から1カ月ほど墓の中で寝泊まりしました。天長節(天皇誕生日)の4月29日には、日本軍が反撃すると期待していましたが、何もなく、逆に米軍の砲撃が激しくなり、島尻方面に逃げました。
 壕はどこも人でいっぱいでしたが、南風原の津嘉山にあった壕に何とか入ることができました。途中、同郷の上地幸安さんと小禄出身の赤嶺喜作さんと出会い、行動を共にすることになりました。そこには約1カ月いましたが、ある日米兵を見つけ、その日の夕方にはさらに南部に逃げました。南部は悲惨な出来事だらけでした。至る所に死体があり、死んでいる母親のおっぱいを吸っている赤ちゃんもいました。あの時は「鉄砲玉に当たって楽に死にたい」と考えていました。

※続きは1月24日付紙面をご覧ください。