<未来に伝える沖縄戦>日本軍にガマ追われ避難 高宮城清さん(84)〈上〉


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
高宮城清さん(左)のサイパン島での戦争体験を聞く北谷中学の山城陸さん(中央)と宮平泰河さん(右)=6日午後、北谷町伊平

 北谷町伊平に住む高宮城清さん(84)は小学校1年生で渡ったサイパン島で、米軍の艦砲射撃や空襲を逃れながら島内を約2カ月近く逃げ回りました。翌年の沖縄と同じぐらい激しい地上戦が繰り広げられたサイパンでの高宮城さんの戦争体験を北谷中学校3年の宮平泰河さん(14)と2年の山城陸さん(13)が聞きました。

 《サトウキビ農業をするためにサイパン島に渡っていた父、実賢さんは生活が落ち着いたとして、1938年、高宮城さんら家族を呼び寄せました》

 太平洋戦争が始まったばかりのころ、真珠湾攻撃やシンガポール陥落、グアム占領など勝ち戦の話ばかりだったけれど、私が5年生になった43年ごろにはだんだん戦況はおかしくなって、日本軍は苦戦してくるわけですね。中国大陸に行っていた日本軍が南洋諸島に送られてきていました。
 向かう途中で輸送船が沈められたため、鉄砲もない、衣服もない。裸同然の兵隊が来ていた。兵舎もないので、私たちが通っていた学校は兵舎になって、私たちはかやぶきの掘っ立て小屋で授業を受けていました。

 《高宮城さんが6年生になった44年、サイパン島でもついに戦火が上がりました》

 6月11日のお昼ごろ、急にサイレンが鳴り出しました。途端に高射砲の発射音が響き始めました。家の近くを流れている川のそばに造っていた防空壕に逃げ込みました。夜になったら射撃がやむので家に戻るということを11日と12日にも繰り返していました。
 13日昼に防空壕のそばの川の土手に上って海を見ると、水平線にぽつんぽつんとごま粒ぐらいの黒い点があった。見ているうちにそれはどんどん大きくなって、軍艦だったんです。水平線が見えなくなるぐらいたくさんの。しばらくしたらそこから大砲が撃ち込まれるようになりました。

※続きは5月28日付紙面をご覧ください。