<未来に伝える沖縄戦>宮古から台湾に疎開 宮城夢之さん(82)〈上〉


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台湾への疎開や家族との死別などの戦争体験を語る宮城夢之さん(左)と話を聞く中村実愛子さん(中央)と大城舞さん=2日、南風原町内

 南風原町に住む宮城夢之さん(82)=ヨシから改名=は、戦時中12歳で、両親と姉と兄、2人の妹と共に、宮古島の旧平良町で暮らしていました。疎開や家族の死など、宮城さんの戦争体験を南風原中学校3年の中村実愛子さん(14)と2年の大城舞さん(13)が聞きました。

 《1944年7月、サイパン島の日本軍が全滅し政府は沖縄を本土防衛の拠点に位置付けました。いよいよ沖縄に戦争が来ると聞き慌てて、平和で静かな宮古島の人々は各町内会で疎開することになりました》

 静かな島でしたが戦争に備えて防空壕に入る訓練や爆弾が落ちた時の訓練をしていました。普通に買い物はできず、無駄がないようにお金を払っての配給制になりました。疎開が決まり「台湾に行ける」と子どもの私はうれしかったです。

 沖縄に働きに出ていた姉以外の家族6人は台湾の旧・新竹州苗栗郡にある鶴岡国民学校に疎開しました。もんぺを準備して一つの教室に6所帯が入り、竹で床を取り、かます(わらむしろの袋)とわらを敷いたところで生活することになりました。最初の頃は台湾の方々が食事を作ってくださいました。その後、一家から1人ずつ出て作り、それも長くは続かず各自で支度をしました。爆撃の振動で窓が揺れることもありました。日米の飛行機の空中戦があり、旗を振り応援していると「危ないから隠れろ」と言われ慌てて防空壕に隠れたこともあります。

※続きは6月25日付紙面をご覧ください。