<未来に伝える沖縄戦>負傷した手からうじ 勝連アサ子さん(83)〈上〉


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勝連アサ子さん(右)の戦争体験を聞く普天間中3年の平良涼帆さん(左)、國仲海月さん=16日、宜野湾市の新城公民館

 中城村北上原出身の勝連アサ子さん(83)=宜野湾市新城在住=は沖縄戦当時、宜野湾村(当時)野嵩の学校に通う12歳でした。1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し進撃を始めると、両親と妹、弟と昼夜逃げ回る生活を送りました。避難やその後の収容所生活で、勝連さんは家族を全て失いました。宜野湾市立普天間中学校3年の國仲海月さん(15)、平良涼帆さん(14)の2人が勝連さんの戦争体験に耳を傾けました。

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 〈当時、勝連さんは北上原から野嵩の学校に歩いて通っていました。戦争に備え、学校では竹やりで敵を攻める訓練もしていたそうです〉

 どこからともなく知らせがあり、アメリカ兵が上陸したことを知りました。逃げなければならず、塩やみそ、米などを担いで家族で避難を始めました。父の仲村渠春扶はぜんそくだったこともあり、徴兵はされませんでした。母のゴゼイ、妹のツル子(7)、弟の春仁(3)の家族5人で島尻方面へ向かいました。

 〈本島西海岸から上陸した米軍は4月3日には東海岸の中城湾に達し、本島を南北に分断。その後、中南部地域では激しい戦闘が繰り広げられます〉

 昼も夜も歩き続け、4、5日くらい歩いたころでしょうか。首里城付近の壕にたどり着きました。そこに数日身を隠しました。

 〈当時、首里城の地下には日本軍第32軍の司令部が置かれていました〉

 アメリカ兵が近付いてきているということで、そこからまた避難を再開しました。海からはどんどん艦砲が飛んできます。夜間は照明弾も上がりました。自分の場所がばれてしまうので隠れなければいけないのに「明るくなったから今のうちに早く早く」と逃げ回りました。

 そのうちに見つけた防空壕に入ろうとすると、日本兵が出てきて、「兵隊のものだから出て行け」と言われ、入れなかったこともありました。

 そこからたどり着いたのが、今の糸満市真壁のあたりだったと記憶しています。サーター屋(黒糖を作る小屋)があり、そこへ逃げ込んだのですが、艦砲射撃に遭い、私は意識を失いました。気が付くと、服が焼け、左腕が後ろにねじれ、左手の指が切れて血がたくさん出ていました。

 日本兵がけがを汚れ水で洗い、簡単に包帯で巻いてくれましたが2、3日すると激しい痛みに襲われました。包帯を外してみると、ただれた左手からうじがたくさん湧いている。痛くてたまりませんでしたが、それでも逃げ続けなければなりません。この時のけがのせいで、左手の小指は今も曲がったままです。

※続きは9月24日付紙面をご覧ください。