<未来に伝える沖縄戦>マラリアで死も覚悟 山城修さん(88)〈下〉


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 《沖縄戦当時、日本軍と行動を共にした鉄血勤皇隊の通信隊・暗号班だった17歳の山城修さんは、司令部の八重山農学校から於茂登岳への移動に同行し、それからしばらくは山の中で過ごしました》

高校生に戦争体験を語る山城修さん(左)=名護市の名護商工高校

 茅で作られたあばら家に住みました。蚊に刺されたらマラリアにかかるので刺されないように予防するため、薪をたき、青い葉を置いて煙をうんと出しました。交代で眠らないで不寝番をする人がいました。そこにいる間はマラリアにかかりませんでした。

 一般の人たちは(蚊に刺されない予防策をしないために)マラリアにかかって、ずいぶん死にました。八重山では戦争が終わってから戦争が来たようなものです。一家全滅の家もありましたし、死んでも葬ることができなくて軒下や、家のすぐそばの木の陰に死体を置いている家などがたくさんありました。 

 《戦争が終わり山城さんは、於茂登岳で軍が解散となったため、伯父の元へ帰りました》

 私は帰ってから、伯父がはるやーぐゎー(畑小屋)を買った土地に造ってあったのでそこに住みました。芋を植えたりしていたが、蚊に刺されたのか、マラリアにかかり、熱が40度ぐらいまで上がりました。

 だんだん気が遠くなり死ぬというのはこういうものだなと思いました。その時は伊江島の古里の親、きょうだいもどうなっているか分かりませんでした。沖縄ではみんな全滅したとの話しか八重山には聞こえてきませんでした。死ぬのは怖くなかったのですが、非常に寂しくて涙が流れてしょうがなかったです。

※続きは11月27日付紙面をご覧ください。