<未来に伝える沖縄戦>故郷、米軍に奪われ 山城清輝さん〈下〉


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故郷を基地に奪われ「心は避難民のまま」と語る山城清輝さん=沖縄市上地

 〈1945年、熊本予備士官学校を卒業した当時21歳の山城清輝さんは軍の命令で、宮崎県に移動します〉

 予備士官学校を卒業したのは45年6月で、沖縄には既に米軍が上陸していました。沖縄上陸後は宮崎県に上陸するだろうといわれており、私は宮崎の海岸沿いで陣地を造ることになりました。敵が海岸から上がってくる際、身を隠しながら鉄砲が撃てるよう穴を掘るのです。小隊長となり、60人の部下に指示を出しつつ、一日中、陣地構築に明け暮れる毎日でした。そして8月に終戦を迎えたのです。

 戦争が終わって、本土の人はすぐ家に帰れましたが、沖縄へは飛行機も船も出ておらず、何の情報も無かったため私は帰るめどが立ちませんでした。戦争中は秘密がばれないよう手紙のやり取りも制限していて、沖縄にいる家族の消息も分からないままでした。私は宮崎県庁で今の日南市にあった鵜戸青年学校での教師の仕事を紹介され、仕事を始めました。最初の仕事は教科書の墨塗りです。大日本帝国という文言なら日本国に直すなど、軍国主義の色がある部分を消していきました。

 〈終戦から1年たった46年、山城さんの沖縄への帰還が決まりました。同年9月ごろ、船で鹿児島港から那覇港に向けて出発しました〉

 沖縄は玉砕したということしか聞いておらず、人間は一人も生き残ってないだろうと思っていました。それでも一目確認しようと思って沖縄に帰りました。那覇港に着き、昼には今の沖縄市のインヌミヤードゥイの収容所に入りました。しばらくして、そこに母がひょっこり顔を出したんです。母は私が帰ってくることを信じて、引き揚げ船が着いたと聞くたびに、収容所に通っていました。「ああ、生きておったのか」と2人で泣きました。

 命は無事だったものの、故郷は焼け野原で、自分の家も全部アメリカに取られました。地元を守るために戦争に協力したのに、地元は嘉手納飛行場になり帰れなくなっていたのです。

※続きは5月28日付紙面をご覧ください。