<未来に伝える沖縄戦>サイパン空襲、壕生活 玉城美子さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 戦前、日本の支配下にあったマリアナ諸島のサイパン島で生まれた玉城(旧姓新垣)美子さん(80)=南城市玉城=は、1944年6月に始まったサイパンの戦いに巻き込まれ、住んでいたチャランカノアを追われます。米軍機の攻撃を避けながら、サイパン島の中央部にあるアギーガンの自然壕に隠れた後、米軍に投降しました。玉城さんはチャランカノアのススッペ収容所で過ごします。その間に妹の秀子さんをアメーバ赤痢で亡くしました。サイパンの国民学校の2年生だった玉城さんの戦争体験を南城市立佐敷中3年生の新里凜さん、嘉数広也さん、花木ひよりさんが聞きました。

「どんなことがあっても生きていたかった」とサイパンでの戦争体験を振り返る玉城美子さん=南城市の佐敷中学校

 《玉城さんはサイパンで1936年に生まれ、米軍が島に上陸するまでは両親やきょうだいと暮らしていました》

 父がチャランカノアで農場を経営していて、豊かな生活をしていました。日本軍は米軍の上陸に備えて、44年初頭からサイパンに集結し始めました。国民学校の頃には兵舎になっていた集会所を訪れて「兵隊さんよありがとう」や「かもめの水兵さん」などを歌ったり、遊戯をしたりして兵隊を慰問していました。

 自宅の裏に日本軍の無線基地があり、父は休日に基地の兵隊を自宅に呼んで、ごちそうしてあげました。

 日本軍は長期戦に備えて、燃料や食料を地面に埋めたり、一般から野菜を供出させたりしていました。地域では竹やりの訓練や消火訓練などもしました。

《サイパン島への米軍の攻撃は44年6月11日に始まりました。玉城さんが家族と住んでいたチャランカノアも空襲を受け、島の中央部のアギーガンで自然壕に隠れることになります》

 初めて米軍機の空襲があった日、うちの庭で遊んでいた野原君という少年が、飛来した米軍機を見て「おじちゃん。あの飛行機に日の丸じゃなくて星のマークが付いている。戦争が来た」と言って自分の家に逃げ帰って、私たちも自分の家に造った防空壕に隠れました。

※続きは6月14日付紙面をご覧ください。