<未来に伝える沖縄戦>砲弾、母と胎児の命奪う 久保田宏さん(74)〈1〉


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糸満市の地図を見ながら久保田宏さん(右)の戦争体験を聞く糸満高1年の鳥羽咲優美さん(中央)と上原麗羅さん=5日、糸満市米須

 糸満市米須に住む久保田宏さん(74)は米須出身で、沖縄戦当時、一緒に逃げていた祖母と母を失いました。さらに祖父と弟とは生き別れとなり「今でも生きているかもしれない」と話します。当時4歳で小さかったけれど、銃を突き付けた上半身裸の米兵の姿は今でも目に焼き付いています。久保田さんの話を糸満高校1年の上原麗羅さん(15)と鳥羽咲優美さん(15)が聞きました。
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 米須の自宅でおじいとおばあ、おかあとお姉ちゃん、弟と6人で住んでいました。
 おとうは1944年の11月に防衛隊に行ったそうです。おじいとおばあは朝早く起きてから畑に行ってキビ(サトウキビ)の様子を見たり、海にも行ってアーサを採ったりしていた。母は妊娠していましたね。弟か妹がおなかの中にいたんです。
 米須の青年たちは、浜辺でいかにも米兵をかたどった麦わらやら稲やらで作った人形を竹やりで突いていてね。45年の1月か2月くらいだったと思う。それを見てかっこいいなーと思ってね、自分も早く大人になってこういうのしたいなあって思っていた。
 幼稚園に通っていた時は、童謡も歌うけれど軍歌などを歌うことの方が多かったですよ。今でも覚えている。
 「空襲警報聞こえてきたら いまはぼくたち ちいさいから 大人の言うこと よく聞いて あわてないで さわがないで おちついて 入っていましょう防空壕」
 空に飛行機が飛ぶのをよく見掛けた。爆撃はなかったから、偵察機かもしれない。
 これは叔母から聞いた話なんですけどね、束里の荒崎海岸の見える山の高台に日本兵の陣地壕があって、僕たちは5月末から6月にかけての何日間はそこに入っていたようです。そのガマのことは覚えていないんだけど、周辺の部落の人はみんな集まっていたと聞きました。束里、喜屋武、山城の人たちはみんな、日本兵も一緒にいるから安心して守ってくれると思っていたそうです。

※続きは6月13日付紙面をご覧ください。