沖縄戦から我々は何を得たのか 体験者の苦悩を見つめ、平和への道しるべに 【特別評論10・10空襲から75年】小那覇安剛社会部長


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
小那覇 安剛(社会部長)

 75年前の今日、晴れ上がった沖縄の空に延べ1400機もの米艦載機が襲来した。本島各地や離島の飛行場や港の軍事施設に加え、学校や役所、民家を無差別に攻撃し、旧那覇市の9割が消失した。1944年の10・10空襲である。

 この日の青空、太陽の光を受けて輝く米軍機の機体、がれきが放つ煙の臭いをはっきりと記憶する人々の多くは80代半ばを超えている。

 10・10空襲を取り上げた本紙連載「あの日、あの場所で」で証言した体験者は78歳から91歳である。「いま伝えなければ」という切実な思いから、思い出すこともつらい体験を孫の世代にも当たる本紙記者に語ってくれた。

 沖縄戦体験を明確に記憶し、後世に伝えることができる世代は限られている。75年という節目を捉え、サイパン、テニアンの戦争や対馬丸沈没を取材した本紙記者が実感したことだ。

 しかし、「戦争体験の風化」という言葉をそのまま受け入れるわけにはいかない。沖縄戦で深い傷を負った人は戦後も苦しみ続けている。県民の心の奥底で悲惨な体験は風化することなく、むしろ深化しているとも言える。私たちはこれからも体験者の苦悩を見つめ、言葉を聞き、地道に記録していきたい。

 来年は戦後75年である。沖縄戦に学び、事実を掘り起こし語り継いでいく取り組みは今後正念場を迎えることとなろう。日を追うごとに戦争体験者が減っていくという事実に向き合い、沖縄戦体験を記録・継承する方策を探る活発な論議が求められる。

 同時に、なぜ沖縄戦に学ばなければならないかを再確認したい。在沖米軍基地の重圧、日米安保条約・日米地位協定がもたらす不条理、歪(いびつ)な経済構造など、今日の沖縄社会に横たわる問題の元をたどれば、多くは沖縄戦とその後の米統治に帰着する。

 現在進行中の動きも注視したい。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓に照らして、普天間飛行場返還に伴う名護市辺野古の新基地建設強行、宮古、八重山における自衛隊配備・増強にどう対処すべきかを問うべきである。そして平和憲法、言論・表現の自由の危機が叫ばれる今だからこそ、過去の戦争体験に立ち戻る必要がある。

 沖縄の現状を問い、進むべき未来の方向を探るとき、私たちは幾度も沖縄戦に立ち返ってきた。沖縄戦は過去の出来事にとどまるものではない。未来を照らすほのかな灯は、地上戦が去った後の焼土から発している。その意味でも「戦争体験は風化した」と結論付けるわけにはいかない。

 私たちは今月、一つの試みとして10・10空襲の体験記を読者から募った。寄せられた体験記はいずれも切実な内容であり、未来へ向け、平和の道しるべを据えようという意志を感じさせるものだ。この取り組みを今後も続けたい。

 ひめゆり学徒隊の引率教師、仲宗根政善氏は1975年の日記で戦争体験を記録し、継承する意義を説き、「我々は、今後、決して羊のようにあてどもなく導かれてはならない。幾万の同胞の血をもって山河を染め、万骨を島に埋めてきた民族の体験によって何を得たのか。それは生の肯定であり、平和への渇仰であった。南島の空は昔ながらに光にみちている。今後、平和への渇仰は深まるにちがいない」と記している。

 私たちは、今日の青空を見つめ、沖縄各地が焼き払われた日の青空と激しい地上戦がもたらした焼土を想像し、平和の尊さについて思いを新たにしたい。