「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ」(あんな戦争でみんな死んでしまった)
今年6月17日、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=は74年ぶりに糸満市大里の農道を訪れた。沖縄戦末期の1945年6月下旬、浦崎さんはこの地で米兵に捕らわれた。その時、撮影された浦崎さんの姿が沖縄戦の悲劇を象徴する「震える少女」として今日、県民の心に深く刻まれている。
浦崎さんは38年4月、3男3女の三女として高嶺村(現・糸満市)与座で生まれた。沖縄戦中、海軍の電波探知機部隊が駐屯していた与座岳で日米両軍が激しく戦った。
日本軍に徴用された父親の松さんと長男正儀(しょうぎ)さん、嫁ぎ先にいた長女トシさん、疎開していた次男弘昌さんを除く一家4人は激戦地となった与座にある墓で息を潜ませていた。やがて隣家の墓が砲弾を受けたことを知り、一家は墓を出た。
逃避行の最中、銃撃で腹を負傷し歩けなくなった母カメさんは、三男の正弘さんだけを残して逃げるように浦崎さんに告げた。
「母は死ぬことを覚悟していたんだろう」
6歳だった浦崎さんは、母や弟と別れ、15歳上の次女マサさんと2人で逃げた。その後間もなく、米兵と遭遇した。
米軍に捕らわれ、映像を撮られた浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)はトラックに乗せられ、玉城村(現・南城市)の収容所へ向かった。その途中、終戦を知った。その後、越来村(現・沖縄市)のキャンプ・コザに移動する。そこで別れた母カメさんと弟正弘さんと再会した。
「また、生きて会えるとは思わなかった」
過酷な戦争によって家族は深い傷を負った。末子さんと別れた後、カメさんと正弘さんが避難した親戚の墓で米軍のガス弾を受けた。正弘さんは後遺症で衰弱していた。腹部を負傷して歩けなかったカメさんに代わり、末子さんは食料を探し回った。「芋のかすを掘り起こして食べ、飢えをしのいだ。木片をヘラ代わりにして畑を掘って食べられる物を探した」
正弘さんは満足な治療を受けられないまま、キャンプ・コザで息絶えた。まだ5歳だった。
戦争を語らなかった姉
1945年11月ごろから各地の収容所から故郷への帰還が始まったが、末子さんらが与座に戻ることはかなわなかった。集落内は不発弾が散在し、足を踏み入れられるような状態ではなかった。米軍の弾薬集積所となっていた高嶺村(現・糸満市)一帯も村民の立ち入りが禁じられていた。
家族は近隣の集落で暮らし、与座に戻った時には敗戦から2年が過ぎていた。「家も畑も跡形もなかった。爆撃を受けて辺り一面が真っ白になっていた」という惨状から暮らしの再建が始まったが、戦争の影は付きまとった。
「日本軍の次にやってきたのはアメリカーだった」。日本軍の電波探知機部隊が駐屯していた与座岳に米軍基地が建設された。やがて集落には米兵向けの商店や飲食店が立ち並ぶようになり、村民の暮らしを支えた。末子さんも生涯の伴侶と基地で出会った。
「夫は基地で働いて家族を養った。アメリカに助けられ、アメリカに生かされた」と自身の半生を振り返る末子さんだが、人生を一変させた沖縄戦の記憶が消えることはなかった。
父の松さん、長男正儀さんが戦死した。収容所で亡くなった弟の正弘さんに加え、姉のマサさんも戦争の後遺症で体調を崩し、息子を産んだ後、早世した。沖縄戦は4人の家族を末子さんから奪った。
末子さんの姉で長女のトシさんは摩文仁の丘の慰霊碑に行くことを避けていた。一度だけ家族に連れられて行った時、敷地に入ると半狂乱になって叫んだ。
「くちさん! んにひっちりくゎーりん!(辛い、胸が引き裂かれる)」
トシさんは生涯、戦争の話を家族にすることはなかった。74年間、口をつぐんでいた末子さんにもその気持ちが痛いほど分かる。
「思い出したくないさ。兄さん、父さん、正弘。みんな戦争がなかったら元気だったのに、と今でも思うよ。戦争は本当に怖いよ」
(安里洋輔)
◇ ◇ ◇
「震える少女は私」と名乗り出た浦崎末子さんの証言は沖縄戦の悲惨さを改めて世に伝えた。幼少期の記憶を語るまでに74年を要した。長い沈黙の背景には浦崎さんの戦後の歩みが深く関わっている。戦世(いくさゆ)に翻弄(ほんろう)された末子さんとその家族の物語をたどった。