「観光客を集める首里城をどこか斜めに見ていた」という紅型職人が、焼失で気付いた首里城と共に生きた祖父の思い


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薬きょうを筒先に使用した筒書き用の袋など、祖父・城間栄喜さんが戦後に自作した道具を受け継ぐ栄市さん=28日、那覇市首里山川町の城間びんがた工房

 紅型三宗家の一つ、城間家16代目の城間栄市さん(42)は、大火で真っ赤に染まった首里の空を見ながら祖父・城間栄喜さん(故人)の姿を思い起こしていた。首里城と同様に沖縄戦で失われた紅型を復活させ、1992年の首里城正殿の復元と同じ年に亡くなった祖父。「家業の紅型の象徴だった首里城と共に生きた人生だった。今回の出来事で自分の中に一本の心棒が通った」と文化の継承へ思いを強くしている。

 10月31日午前5時すぎ、栄市さんは同級生からの「LINE(ライン)」で首里城の火災を知り、首里山川町の工房へ車を走らせた。目指す高台の夜空が赤く染まっていた。

 「自分たちは職人だからと、観光客を集める首里城をどこか斜めに見ていたところがあった。祖父たちの思いをつないでこなかった自分のせいで首里城が燃えたんじゃないか」―。そんな不安な気持ちにさいなまれた。

 〈闇ぬ夜に立ちゅる幼子のうちなわ しばしうちすりてぃ嵐どぅきら(闇夜に立ちすくむ幼子の沖縄よ、今は力を合わせて嵐に立ち向かおう)〉

紅型展で西銘順治知事(当時)に作品を紹介する城間栄喜さん(手前)=1989年

 沖縄戦で焼け野原になった首里の街を見た栄喜さんが詠んだ琉歌が、首里城の焼失に直面した自身の心情に重なった。「祖父も、子どもだった父も、心細い思いで立ち尽くした。その中にあって『嵐どぅきら』と、家業の紅型を必ず復興させることを誓った」

■焦土から継いだ紅型 「未来信じた」復興誓う

 首里城の火災から1カ月。栄市さんは「家業の紅型の象徴だった首里城と共に生きた人生だった」と祖父・栄喜さんの歩みをかみしめる。

 琉球王国時代に紅型は王族や士族だけしか着用が許されず、紅型職人たちは王府の手厚い保護を受けた。資源のない琉球国にとって中国や日本への献上・贈答品としても重要な工芸品で、アジアとの交易に大きな役割を果たした。

 しかし、明治政府による廃琉置県後は紅型職人の多くが経済的に困窮し、廃業する者が続いた。ほそぼそと紅型を受け継いできた職人たちも沖縄戦で首里・那覇の街が焦土と化し、工房も道具も型紙も、紅型を作るすべが全て失われた。

 栄喜さんは染料を仕入れに行っていた大阪で軍隊に現地召集され、敗戦2年後の1947年に、熊本に疎開していた長男・栄順さんら2人の子どもと沖縄に戻った。目にしたのは廃虚となった故郷首里の街並みだった。

 首里山川のテント小屋で紅型を再開した栄喜さんは、砲弾や米軍の廃品で道具を作った。のこぎりの破片で型彫り用のシーグ(小刀)を作り、筒書き用の筒先に竹の代わりに薬きょうを用いた。のり付けするヘラにはレコード片を使い、米製の口紅などを染料にして色を差した。

 極貧の生活の中、戦火を免れた型紙の収集にも駆け回った。琉球時代の技術を受け継ぐ栄喜さんがあきらめることなく知恵と工夫と情熱でなりわいをつないだことで、王朝文化の紅型は現在まで守り抜かれた。

 15代目を継いだのは、荒廃した首里の街に立ち尽くす「幼子」だった父・栄順さん(85)だ。栄喜さんに学んだ技術を発展させ、国内の高級呉服店にも流通する美術工芸品として紅型の評価を高めた。

 栄順さんが高齢を迎えたのに伴い、4年前に栄市さんが城間家の当主を受け継いだ。紅型の工房に生まれ、家業を継ぐのは当然と思うところがあった。だが、当たり前にあると思っていた首里城が焼失した衝撃で、栄喜さん、栄順さんから続く城間家の足跡を強く意識することになった。

 栄市さんは「祖父は何もかも失った故郷を見ながら、立派に復興発展する未来を信じていた。首里城が燃えているのを見た時に、自分も覚悟が決まった」と首里城の復興を誓った。
 (与那嶺松一郎)