「恐怖で動けなかった」ブロック塀に開いた穴が物語るもの 川崎米軍機墜落から58年


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事故当時の状況を振り返る大嶺良子さん=11月29日、うるま市の川崎小学校

 【うるま】1961年12月7日、米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が旧具志川村川崎(うるま市川崎)に墜落し、死者2人、重軽傷者6人が出た事故から58年。当時22歳で、墜落現場から約100メートル離れたところにいた大嶺良子(よしこ)さん(80)=うるま市川崎=が、その時の様子を語った。惨状を目の当たりにし「呆然(ぼうぜん)としてその場から動けなかった」と振り返る。

 この日、自宅近くの豚小屋で豚に餌を与えている最中だった。突然、耳をつんざくような爆音がしたかと思えば、機体の破片が飛び散ってきた。瞬く間に辺り一帯は火と煙で充満。住民は騒然としていた。大嶺さんは「恐ろしくなり、その場に立ちすくんでいた」という。家から外に出てきた母が「あいえなー」と叫んでいたのを覚えている。辺りでは人の泣き声が響いていた。

 それから58年。事故の痕跡は今でも残っている。飛び散った機体の破片で、近くのブロック塀に穴が開いた。当時の街並みと大きく変わったが、ブロック塀に開いた穴が惨状を静かに伝え続けている。

 「二度とこのような事故を起こしてはならないという叫び声が、穴から聞こえてくるようだ」と語る大嶺さん。「穴をなくしてしまえば、事故の記憶を消してしまうのと同じだ」。次の世代に継承するためにも、ブロック塀はそのまま残してほしいと願う。登下校する川崎小の子どもたちを見掛けるたび、大嶺さんはその思いを強くする。
 (砂川博範)