「ウチナーンチュと米兵、どちらの気持ちも分かった」 基地の街で育った伝説のバンド「紫」のドラマーが明かした思い コザ騒動から49年


この記事を書いた人 Avatar photo 高良 利香
コザ騒動の様子を語る宮永英一さん=14日、沖縄市中央のライブハウス「CANNON CLUB(キャノンクラブ)」

 【沖縄】街に充満する焼け焦げた臭い、民衆の怒号―。49年前の1970年12月20日、コザ市(現沖縄市)で米軍人が起こした交通事故と米憲兵隊の事故処理に憤慨し、民衆が車両を焼き払った「コザ騒動」が起こった。ロックバンド「紫」のドラマー宮永英一さん(68)も目撃者の一人だ。当時、米兵相手にライブ活動をしていた宮永さん。「ウチナーンチュと米兵、どちらの気持ちも分かった」と複雑な心境を振り返りつつ、戦後の歴史や文化を忘れることなく、自由や平和への思いを込めて今日もロック音楽を響かせる。

 コザで育ち、中学校卒業後すぐにバンド活動を始めた。騒動当時は19歳、ゲート通り沿いのバー「アスターハウス」で働いていた。客のほとんどが米兵だった。ベトナム戦争の真っただ中だった当時、沖縄には同年代の若者たちが米国各地から戦地へ向かうために集められていた。「浴びるように酒を飲み、やり場のない感情を音楽で発散していた。戦地に向かう日が近づくと、彼らの目が変わっていくのがステージ上からでも分かった。戦争に行きたいという兵士はいなかった」。宮永さんは自身の意思とは関係なく戦争に駆り出される若者の当時の姿をこう振り返った。

20日未明、ゲート通り沿いのバーで米兵相手のライブを終えた後の出来事だった。

 帰り道の市上地で米軍人による事故の現場に遭遇した。現場では怒号が飛び交い、民衆が車を揺すり始めたが「これ以上は大事にならないだろう」と帰宅。眠りに就こうとした時だった。「パン」という発砲音を聞き「ただ事じゃない」と自宅を飛び出した。島袋三差路(現山里三差路)で沖縄の警察官と米憲兵隊が、民衆と対峙(たいじ)していた。

 米兵相手の仕事柄、民衆に加勢できなかった。それでも「ウチナーンチュの怒りは理解できた」。米軍人の父と徳之島出身の母を持つがウチナーンチュと自覚する。朝鮮戦争に出兵した父と多忙な母に代わり宮永さんの面倒を見たのは、那覇市出身の近所の女性。「ウンメー(おばあさん)」と呼んで懐く宮永さんに、自分の子どものように愛情を注いでくれた。

騒動当時の宮永英一さん(前列中央)とバンドメンバーら

 米兵から差別的な扱いを受けたこともある。「白人からすれば自分もCOLORED(カラード)(有色人種)。負けてたまるかと何度も思った」という。

 焼き払われた中には常連だった米兵の車もあった。騒動後に店を訪れた米兵は「まいった。まさか沖縄でこんなことが起きるとは…」と肩を落としたという。宮永さんは「ウチナーンチュと米兵、どちらの気持ちも分かった」と当時の心境を語る。騒動を受け、米軍は軍人や家族の外出を制限。米兵向けの店を営む人々は苦境に立たされた。

  あれから49年が経過した。復帰などを経て徐々に衰退していったコザの街。宮永さんは戦後の歴史や文化も忘れ去られることを危惧する。「歴史にふたをしてはいけない。歴史を学ぶことで未来はつくれる」

  かつてBCストリート(現パークアベニュー通り)にあった「CANNON CLUB」(キャノンクラブ)を今年3月に復活させ、ロックを響かせ続ける宮永さん。特に60~70年代の楽曲にこだわる。戦地へ向かう米兵がリクエストした当時のヒット曲だ。多くは自由や平和、愛を歌う。「コザから世界へ愛と平和のシュプレヒコールを上げよう」と高らかに叫んだ。 (下地美夏子)

怒りを爆発した民衆によって横転させられた陸軍MPの車両=1970年12月20日、コザ市上地(当時)の軍道24号(現国道330号)

 コザ騒動 1970年12月20日未明から早朝にかけて、コザ市(現沖縄市)の軍道24号(現国道330号)と20号(ゲート通り、現県道20号)で、民衆が米憲兵や米国人車両を横転、炎上させた事件。米兵の車両が道路横断中の沖縄の男性をはねた事故がきっかけ。同年9月に糸満町(現糸満市)で米兵が主婦をれき殺し、無罪になった事件のほか、美里村(現沖縄市)で毒ガス撤去を求める県民大会が開かれるなど、米統治下の人権軽視に対する反米感情が高まっていた。
 

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