15年の使用期限、7つの条件はどうなった? 普天間飛行場の辺野古移設を名護市が条件付きで受け入れて20年


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基地使用協定締結など7条件を付けて、米軍普天間飛行場の移設受け入れを表明する岸本建男名護市長(右)=1999年12月27日、名護市民会館

 【名護】岸本建男元名護市長が1999年12月に米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の受け入れを表明して27日で20年が経過した。岸本氏は当時、15年間の使用期限など7項目の条件を提示し、満たされない場合は「容認を撤回する」と強調していた。だが、20年たった現在、岸本氏の条件は満たされないまま辺野古の米軍キャンプ・シュワブでは埋め立て工事が進む。

 岸本氏の示した条件は(1)15年の使用期限と日米地位協定改善(2)シュワブ内ヘリポートの代替施設への移設など既存米軍施設の改善(3)基地使用協定の締結(4)環境への配慮―など。移設受け入れを表明した99年12月27日の会見で岸本氏は「私の人生で最も困難な選択だ」と吐露した。

 当時の稲嶺恵一知事も代替施設の15年の使用期限と軍民共用化を主張しており、“共同戦線”を張っていた。

 岸本氏の容認を受け、政府は99年12月28日に政府方針を閣議決定。普天間飛行場の名護市辺野古移設を打ち出した。岸本氏らの条件への対応も示されたが、使用期限については「米国政府との話し合いで取り上げる」との表現にとどめ、確約はしなかった。

 新基地の使用協定については2002年に名護市と県、国で「供用開始までに締結する」との基本合意書を締結している。一方、政府は06年5月に日米合意に基づいて辺野古移設などを改めて閣議決定し、使用期限の協議などの項目を削除。1999年の閣議決定は廃止し、岸本氏が掲げた容認条件は無効化された。

 2006年5月。政府は普天間飛行場代替施設について日米で合意した2本の滑走路をシュワブ沿岸に建設する案を基本に「早急に代替施設の建設計画を策定する」と閣議決定した。閣議決定前の同年2月、退任を直前に控えた岸本氏はシュワブ沿岸への代替施設建設計画に「滑走路延長線上に民間住宅があり、住民生活への影響を考えても論外だ」と批判した。

 それから1カ月余りたった同年3月27日、岸本氏は肝細胞がんで死去した。

 岸本氏の後継として市長に就任した島袋吉和氏は同年4月、当時の額賀福志郎防衛庁長官と沿岸案で合意した。島袋氏は容認の理由について「民間地区の上空を飛行しないことが示された」と説明した。

 13年12月に仲井真弘多知事(当時)から埋め立て承認を得た政府は14年7月に陸上部の工事に着手し、17年4月には護岸工事を始めた。18年12月に埋め立て区域の土砂投入に着手した。

 後任の名護市長の基地に対する立場は変遷した。10年に就任した稲嶺進氏は新基地建設反対の姿勢を明確に打ち出した。18年に就任した現職の渡具知武豊氏は新基地建設への賛否を明言しない姿勢を取っているが、辺野古移設を推進する政権与党が選挙戦を全面支援した。(塚崎昇平)