「もうだめだ」米軍の上陸、島民を襲った恐怖 「集団自決」を生き延びた女性が証言する75年前に島で起きたこと


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田中美江さんが家族で避難した「ユヒナのガマ」。手りゅう弾が不発だった後、引き潮を待って、海岸線を歩いてヌンルルーガマへ逃げた=25日、座間味村阿佐

 米軍が座間味島に上陸した1945年3月26日、当時15歳で座間味国民学校高等科2年だった田中美江さん(89)=旧姓・高江洲=は家族と共に逃げ込んだガマで「集団自決」(強制集団死)の危機に直面した。島の教師が破裂させようとした手りゅう弾は不発だったため家族は生き延びることができた。島の米軍上陸と多くの村民が犠牲となった「集団自決」から26日で75年。田中さんは「戦争は人の心を壊し、夢や希望を持てないようにする」と平和の尊さを語り掛ける。

 45年3月23日の昼前。阿佐の山で同級生らと開墾作業に汗を流していた田中さんは米軍の空襲に遭い、田中さんは阿佐の集落内にある家に逃げ帰った。その日から家族5人の避難生活が始まった。

 空襲は24日も続き、25日には艦砲射撃が始まった。山は焼け、日本軍の応戦はなかった。田中さんは阿佐集落から離れた海岸線沿いにある「ユヒナのガマ」へ、祖母と母親、1歳年下の妹、3歳年下の弟と共に逃げ込んだ。その時には「恐怖心に支配されていた。もう駄目だと思った」

「もう駄目だ」と死を決意し、手りゅう弾を持った教員の方へ向かった田中美江さん。母親と祖母は、田中さんが死のうとするのを引き留めなかったという=25日、座間味村座間

 ガマには教師が家族と共に避難していた。米軍の上陸で壕に逃げた住民は極限状態に追い込まれていた。手りゅう弾を持っていた教師は「一緒に自決してもよいと思う人は、先生の後ろにおいで」と呼び掛けた。死を覚悟した田中さんは「アイちゃん」と呼んでいたいとこと2人で先生の背後に回った。その時、祖母と母親は引き留めなかったという。

 教師が破裂させようとした手りゅう弾は不発だった。その後、カミソリを研ぎ始めた教師を見た住民が騒ぎ出し、一度は自決を決意した田中さんもわれに返って家族と別のガマへ移動した。田中さん家族はガマを転々とし、生き延びることができた。しかし、仲の良かった同級生3人は「集団自決」で亡くなった。

 「戦後75年はあっという間だった」と田中さんは自らの人生を振り返る。「体験談を語るのは、今はつらいとは思わない」と話し、自身の体験を島の子どもたちに語ったこともあるが、自決を決意したユヒナのガマでの記憶だけは曖昧だ。

 「恐怖心であまり覚えていない。一度死のうとしたのに、失敗した後で生きようと思った理由も分からない」と語り、その理由を「覚えていたくないからじゃない」と静かな笑顔を浮かべた。その表情は75年たったも消えることがない恐怖や悲しみを深く刻み込んでいるように見えた。(嘉数陽)