「あの日、私は一度死んだ」 背後から首を絞められ… 沖縄・渡嘉敷「集団自決」75年


この記事を書いた人 Avatar photo 米倉 外昭

 【渡嘉敷】1945年3月28日、沖縄戦時に渡嘉敷島で「集団自決」(強制集団死)が起きた。この日、渡嘉敷村の金城鶴子さん(91)=当時15歳、旧姓内原=は北山(にしやま)で「天皇陛下、万歳」の声を聞いた。その直後、背後から首を絞められ気絶。目を覚ました時、家族は死んでいた。生き残った金城さん。再び「戦争に近づいている」と感じるようになり、メディアに初めて体験を語った。

 金城さん一家は23日の空襲で大見謝山にある壕に避難していたが、警察官の指示で大雨の中、阿波連集落から北山へ向かった。27日夜中に到着。雨と寒さをしのぐために寄り添い合って眠った。

 28日昼すぎ、すぐ近くで「天皇陛下、万歳」の声が上がり次第に大きくなった。「日本が勝ったんだ」。一緒になって「万歳」を唱えた。その直後、タオルで首を絞められた。

 次に目覚めた時には、そばに母と姉2人の死体が並べられ、父親は首をつって死んでいた。後に聞いた話によると「万歳」は「集団自決」を覚悟した人たちの声だったという。「父は家族を並べて最後に首をつったんだろう。あの日、私は一度死んだ」。金城さんは父親に首を絞められたようだった。

 「米軍に見つかったら何をされるか分からない」。7カ月のおいを背負って逃げた。米軍の通訳をしていた男性に「米軍は誰も殺さないからおいで」と言われ、「どうせ死ぬ」と諦めてついて行った。座間味島へ集められ、復興作業を手伝い配給を得た。

 3カ月がたった頃、寂しさに襲われ始めた。配給のおにぎりは、空腹でも全部は食べられなかった。「おなかすいていたよね」。父の分、母の分、姉の分―と、おにぎりを分けて置き、残りを食べた。「寂しくて何度も死のうと思った」

 戦後75年。「辺野古に基地を造る話など、穏やかではない。地獄だった戦を忘れてはならない」。握った拳に力が入った。(嘉数陽)