特攻艇秘匿壕(北谷) 爆雷抱え片道切符、兵士の思いは…<記者が歩く戦場の爪痕>


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特攻艇の秘匿壕を懐中電灯で照らす北谷町総務部の平和行政を担当する大城美和子さん=8日、北谷町の米軍キャンプ瑞慶覧

 目の前に広がる森の中に壕(ごう)があるとは一見して分からない。「この奥です」。北谷町で平和行政を担当する大城美和子さん(52)が指し示す方角は、草に覆われ何も見えない。行く手を阻むように生い茂ったクワズイモやシダの葉を払いのけ、大発生している蚊の羽音を不快に感じながら進んだ。10メートル足らずの所に、日本軍が“肉薄攻撃”として使用する特攻艇を隠していた「秘匿壕」が姿を現した。

 3月31日に一部返還された北谷町大村の米軍キャンプ瑞慶覧内に残る特攻艇秘匿壕。日本軍の海上挺進第29戦隊の進駐に伴い、1944年12月から昼夜問わず秘匿壕造りが行われた。北谷町史によると町内(当時は北谷村)から比較的年配の200人余が防衛隊として動員された。白比川を挟み30~40カ所が造られたというが、現在はキャンプ瑞慶覧内に6カ所、基地外に1カ所しか残っていない。

 入り口に垂れ下がるつるをよけて壕内に入ると、意外と中は広く、奥行きは約12メートルあった。米軍の目を避けるため隠された特攻艇は全長5・6メートルで、木造合板製。1人で120キロの爆雷2個とともに20ノットの速度で米艦船に体当たりする。二度と戻れないことを知りながら、任務に当たった若い日本兵の姿を想像すると悲しみ、苦しみ、申し訳なさといった表現し難い感情に襲われた。

 1945年3月29日深夜から30日早朝にかけて、秘匿壕から白比川を伝い特攻隊員17人が慶良間方面の米船団を目がけて出撃した。1人が帰還し、残りの16人は海の藻くずと消えた。
 (新垣若菜)

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 戦後75年を経た今も、沖縄戦当時の戦闘の痕跡が各地に残る沖縄。記者が平和ガイドや体験者、市町村の担当者らと戦跡を巡る。沖縄戦の実相に触れ、何を感じたかを伝える。


<用語>特攻艇秘匿壕

 米軍の上陸が想定された地域に配備された日本軍の海上挺進基地第29大隊の進駐に伴い築造された人工壕。木造合板製で、120キロの爆雷を2個搭載し米艦船に奇襲を仕掛ける特攻艇マルレを納めていた。