沖縄出身70人は収容所埋葬か 「遺族に知らせ調査を」ガマフヤー・具志堅代表調査


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米軍名簿から県出身者とみられる名前をプラカードに貼り付ける作業を行う沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん=20日、那覇市泊(画像を一部加工)

 米軍が戦後すぐに作成した日本兵や軍属らの埋葬名簿で、沖縄県内の捕虜収容所に埋葬された237人のうち、県出身者とみられる氏名が70人に上ることが21日までに明らかとなった。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんが、米軍名簿を県の平和の礎の戦没者名簿と照合して調べた。具志堅さんは「沖縄戦の特徴は亡くなった場所が分からないことだが、どこで亡くなったかが分かる貴重な資料だ。多くの遺族は収容所で亡くなったことを今も知らないだろう。遺族に伝えたい」と話した。

 名簿はNPO法人「戦没者追悼と平和の会」(佐賀県)が09年に米国公文書館で発見した。表紙にはメリーランド州ボルチモア近郊のフォート・ホラバードに駐屯していた米陸軍「敵捕虜情報局」との文言や、「第一章日本人」「1951年修正 新たな総合計5979名」などと記されている。内容は氏名、階級、亡くなった日、死因、埋葬場所などで、埋葬場所は沖縄以外にフィリピンなどもある。

米軍「敵捕虜情報局」が作成した名簿の一部。本土の人に交じって県出身者とみられる氏名がある

 NPOから名簿を託された具志堅さんは、埋葬場所が「沖縄」となっている氏名を県の戦没者名簿と照合した。その結果、県出身者の氏名と合致する可能性があるのは70人だった。このうち、県の名簿で死亡場所を「屋嘉収容所」としている人は2人にとどまった。米軍の誤表記とみられる氏名や同姓同名も多くあった。

 米軍名簿では埋葬場所として、現在の在沖米軍司令部の原形である「島司令部」墓地や「陸軍兵站司令部」墓地と記されている。具志堅さんは「兵隊の収容所は基本的に金武町の屋嘉収容所だけだった」とし、墓地は屋嘉収容所にあった可能性が高いとみている。

 元金武町長の吉田勝広さんによると、屋嘉収容所墓地跡地の遺骨調査は1995年ごろ、同収容所に収容されていた元学徒などの記憶に基づき公民館跡地の一部を掘ったが、遺骨はほとんど出てこなかったという。具志堅さんは「前回の調査場所と異なる場所という証言も出ている。遺族の要望を集めてもう一度、調査に挑戦したい。遺骨が見つかれば、遺族にDNA鑑定を呼び掛けたい」と考えている。

 慰霊の日の23日に、糸満市摩文仁の平和祈念公園を訪れる遺族に氏名を見てもらおうと、具志堅さんはプラカードの作成を進めている。

(中村万里子)