繰り上げ卒業式、学友の犠牲 戦争に翻弄された青春 與座章健さん


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焼失した首里城を背に、首里城への思いや沖縄戦時中の出来事を語る與座章健さん=2020年6月10日、那覇市首里の龍潭(又吉康秀撮影)

 1945年4月、首里城地下を南北に貫く第32軍司令部壕の第4坑口では、崩落した土を運び出す少年たちが出入りを繰り返していた。本島中部の西海岸から上陸した米軍は日本軍を追い、司令部が置かれた首里上空にも米軍機が飛び交うようになった。作業を担っていた一中鉄血勤皇隊の與座章健さん(91)は壕から土を運び出したところで、米軍機から落ちてくる爆弾を目撃。逃げるように壕内に飛び込んだ。

 與座さんは小柄な体で南風原村津嘉山からかばんを担いで毎日5キロを歩いて県立第一中学校に通い、懸命に勉強した。龍潭のほとりで首里城の絵を描いたことも思い出の一つだ。

 そんな與座さんら一中生にも戦争の足音が近づいていた。45年3月27日、最上級生の5年生と共に與座さんら4年生の「繰り上げ卒業式」も行われた。戦後、県外の大学に入る際に修学期間が短いことを理由に入学を断られそうになった。「僕らだけ4年で卒業させられた」。戦争に翻弄された記憶は今も鮮明に残る。

 その後、一中鉄血勤皇隊として首里城地下に掘られた第32軍司令部壕の補修作業にかり出された。壕の第4抗口から100メートルほど中に入った場所には落盤で土が積もっていた。與座さんらはその土を運び出す作業を8時間の3交代勤務で担った。

「一中健児之塔」の前で、犠牲になった学友らについて思いを語る與座章健さん=2020年6月10日、那覇市(又吉康秀撮影)

 壕内は思っていたよりも広く、土を運び出すトロッコが設置されても両脇を人が通れるほどだった。土で山盛りになったトロッコは重く、1回運び出すのに20分ほどかかった。作業中にすれ違う日本兵からは「元気を出せ」と尻を蹴飛ばされた。

 重労働をしながら考えたのは「腹が減ったな」ということばかり。そんな時に限って誰かが「月月火水木金金」など軍歌を歌い出した。與座さんも「憂さ晴らしだ」と声を張り上げた。皆つられて歌っていた。

 ある日、いつものように土を壕の外に運び出した與座さんの目に米軍の爆撃機が飛び込んできた。同時に爆弾が落下。「アイヤー!」。與座さんは壕の中に飛び込んだ。「ドカーン」。爆音がとどろいたが、思いのほか遠くだった。「自分に落ちてくるようにしか思えなかった」。極限状態だった。

 「体力に自信がない者は手を上げろ」。4月28日夕、中隊長から突然、隊員の一部を除隊処分にすると命令された。理由は食料不足。與座さんは「手を上げたい」と思いながら上げられず、他の皆も黙っていた。

 すると、與座さんを含めた19人が指名され、除隊となった。軍服を脱ぎ捨て、南部出身の同級生3人と南へ向かい、自宅近くに来て別れた。途中で別れた豊見城出身の大城長栄さんの親から戦後、「長栄が帰ってこない」と聞かされて絶句した。

一中鉄血勤皇隊として32軍の設営に携わった当時を振り返る與座章健さん=2020年6月10日、那覇市の首里城公園(又吉康秀撮影)

 「同級生は皆、思い出がある」。戦争で多くの学友や同窓生を亡くした與座さん。公開を求める声が高まる第32軍司令部壕の上でつぶやいた。

(仲村良太)