「生きている間は伝え続ける」 沖縄戦で父を亡くした男性が平和の礎で誓ったこと


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多野岳で米軍の艦砲射撃の犠牲になった父・松太郎さんの名をなぞる眞喜屋建次さん(右)と妻の啓子さん=23日午前10時56分、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 「ここに来ると胸がざわざわするわけよ」。雨が上がった平和の礎を妻の啓子さん(79)と共に訪れた眞喜屋建次さん(77)=沖縄県那覇市=は、父・松太郎さんの名をなぞって言った。

 1945年4月、建次さんは、羽地村(現名護市)の多野岳に家族7人で隠れていた。父は羽地村役場の職員。4日に1度、山を下り食糧を取りに行くと、同じように山の中で身を潜める人たちに配っていた。

 4月中旬、父は出て行ったきり戻ってこなかった。母の苗さんや姉の照子さんらが探しに行き、山の中腹で遺体を見つけた。当時、多野岳には日本軍宇土部隊の拠点があり、米軍の艦砲射撃を受けていた。遺体を母や親戚が引っ張って麓まで下ろし、土に埋めた。近くの木を目印にし、終戦を迎えた。

 建次さんが小学校に上がった頃、目印にした木の辺りを掘ると遺骨が出てきた。「お骨だけでも帰ってきてくれて本当に良かった」。当時2歳で記憶のない建次さんに、母や姉が何度も多野岳の記憶を語り継いできた。「戦争は実際に起こったことだから。どんな時も、戦争の話を続けていくことは大切ですよ」。建次さんと啓子さんは毎年、子や孫と平和の礎を訪れる。ことしは新型コロナの影響で2人だけだったが、来年はまた、みんなで訪れるつもりだ。「私たちが生きている間は、伝え続けないといけない」