F4ファントム嘉手納移駐、日本政府の不安に米が配慮 当初はグアムや米本土


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横田基地から移駐した米空軍F4ファントム機=1971年3月11日、米軍嘉手納基地

 【東京】1970年12月に日米両政府が合意した米軍横田基地(東京都)のF4ファントム戦闘機部隊の移駐先について、米側が米軍撤退を不安視する日本政府に配慮し、当初検討された米本国や米領グアムではなく嘉手納基地に決定していたことが分かった。東京工業大の川名晋史准教授(国際政治学)が、米公文書から明らかにした。横田基地から地理的に近い沖縄を移駐先とすることで、米軍が日本防衛に関与しなくなるとの日本側の懸念を払拭(ふっしょく)する政治的判断が重視されていた。

 F4の嘉手納移駐は70年12月21日に日米間で合意された。当時進んでいた日本本土の米軍基地再編計画の柱の一つで、他に三沢基地(青森県)のF4を米本国と韓国に移駐することや、厚木基地(神奈川県)の米軍兵力削減などが盛り込まれた。

 これに先立つ70年8月、米国の海外基地について調査した米上院外交委員会の小委員会の議事録が公開され、在日米軍基地が日本防衛より周辺諸国の防衛のためにあるとの米政府関係者の見解が明るみに出た。

 このことが波紋を広げる中、日本防衛の象徴でもある横田と三沢の戦闘機移転が米軍再編の一環として検討され、日本側の不信感を米側が敏感に捉えていた様子が米公文書から浮かび上がる。

 70年9月8日の駐日米大使から米国務省宛の公電では、横田と三沢のF4部隊撤退で日本側に誤ったメッセージを与えないよう、移駐先や移駐時期の決定がもたらす政治的影響について注意が促された。川名氏によると、国防総省が横田のF4移駐先として米本国やグアムを検討していたが、国務省が待ったをかける形で嘉手納に変更されていったという。

 本土では70年代、関東の空軍基地の大部分を横田基地に集約する「関東計画」などにより、首都圏の米軍基地が減少した。71年に完了したF4移駐を契機に横田は輸送機の基地として性格を変え、嘉手納のF4はその後F15戦闘機に切り替わり、現在に至る。

 川名氏はF4移駐について「戦略上の理由よりも、日本政府が抱いていた『見捨てられ』の不安を解消する米側の政治的措置だった。日本本土の、とりわけ東京の基地問題の解消の代償として沖縄の基地負担が増大したことが、新たな側面から実証された」と指摘した。
 (當山幸都)