苦しみうずくまる子、泣きながら子を探す親…当時高校生の男性が初証言 宮森小ジェット機墜落事故から61年


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 【うるま】自分の子どもを探し、名前を叫び続ける人。子どもを見つけられずに困惑する人もいた。1959年6月30日、嘉手納基地所属の米軍ジェット機がうるま市石川(旧石川市)の住宅地や宮森小に墜落した。那覇市泊で矯正歯科医院を経営する渡口進一さん(78)=那覇市=は、事故直後の出来事を鮮明に覚えている。個人病院を営む渡口さんの自宅近くには、事故の負傷者を含め大勢の人が詰め掛けた。「平和な日常が突如破られたようだった」。渡口さんは当時を思い出す。

事故当時の惨状を思い出しながら語る渡口進一さん=22日、那覇市天久の自宅

 児童ら18人が亡くなり、210人が重軽傷を負った墜落事故から30日で61年となった。渡口さんは「自分の年齢を考えて、事故のことを残すべきだと思った」と言い、今回初めて公に証言した。

 事故当時、渡口さんは石川高校2年生だった。授業中、異様な飛行音を聞いた。「落ちる、落ちる」。同級生が叫び、気付けばみんなが教室を飛び出していた。約20分後、宮森小にたどり着くと校舎が炎に包まれていた。離れた場所には苦しみながらうずくまる児童や、負傷して横たわる人、泣きながらわが子を探す親がいた。

 渡口さんは大勢の同級生と一緒に消火活動を手伝った。「現場は惨憺(さんたん)たる状況だった。これほどショックなことはなかった」

 その後、自宅に戻ると、いつもと違う光景が目に飛び込んだ。渡口さんの自宅は内科や歯科、産婦人科が立ち並ぶ病院街にあり、父親は渡口医院を営んでいた。事故後、負傷した子どもを連れてきた親や、子どもを探し回る親などで病院街は騒然としていた。自宅に入ると、父親が診察室で児童4~5人を治療しているのが見えた。「墜落直後から考えれば30~40人の応急手当てをしたのではないか。医療人として当然の対応だったが、誇りを感じた」と渡口さんは語る。

 沖縄が日米の安全保障の要とされ、米軍基地が集中する状況下で、悲惨な事故が児童らの命を奪った。渡口さんは「基地があったから、このような事故が起きた」と、不条理さを痛感する。「これだけ多くの市民が(米軍機の墜落に)巻き込まれて亡くなった事故は、戦後の日本で初めてだった。これはみんなが知るべき歴史だ」。渡口さんは事故の記憶を継承する思いを込めた。

(砂川博範)