胎内被爆を知らされた女性 「父のようになるのでは…」後遺症におびえる日々 広島原爆きょう75年


社会
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「被爆者健康手帳」を前に母から胎内被曝の事実を知らされた過去を振り返る中原冨美子さん=7月31日、那覇市

 広島は6日、被爆から75年の「原爆の日」を迎えた。

 原爆が投下された翌年に広島市で生まれた中原冨美子さん(74)=那覇市=が母から胎内被爆の事実を知らされたのは20年ほど前。「うすうす知っていた。自分も父のようになるのではと怖かった」。動けなくなった父を前に、被爆の後遺症への不安から押しつぶされそうになったこともある。戦争の傷痕が残る自分自身と向き合う一方、沖縄に残る戦争の傷跡には拒絶反応を示す。

 1945年8月6日午前8時15分、米軍は広島市に原爆を落とした。中原さんの父隆明さん、母カズエさん、祖母カツエさん、兄康司さんの4人が住んでいた同市富士見町は市中心部で、爆心地から1キロほどしか離れていなかった。爆発で隆明さんが家の下敷きになり頭にけがをしたことを除き、一家は無事だった。

 周囲は、ほとんどががれきと化した。カズエさんら3人は近くの比治山に避難し、隆明さんだけはつぶされた家に残った。周囲は遺体の山。原爆で亡くなった人々を葬るため、隆明さんは何日も遺体を運んだという。

 「あれが原因かもしれない」。中原さんが高校生になったころ、父は脳の疾患で寝たきりになった。被爆との関連は分からないが、カズエさんは被爆した多くの遺体を運んだことが原因ではないかと疑った。

 その頃から中原さんは貧血になった。「ものすごく気分が悪くなることが多くなった。保健室の常連だった」。カツエさんも入退院を繰り返し、カズエさんは2人を看病しながら、隆明さんの代わりに表具屋を切り盛りした。

(仲村良太)