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うずく歴史に「修正」重ね 日本軍の記憶に隔絶感<沖縄の記者がみた東京の8・15点描>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 【靖国神社と日本武道館で滝本匠と知念征尚】戦後75年の夏は例年と大きく状況が変わった。周知のように新型コロナウイルスの感染が収まらない中、沖縄や広島、長崎での追悼式と同じように、東京都の日本武道館での全国戦没者追悼式(政府主催)も規模を昨年の10分の1ほどへと大幅に縮小して開かれた。武道館の道をはさんだ向かいにある靖国神社にも例年、大勢の人が「英霊」の追悼に訪れるが、こちらも新型コロナ対策を意識したためか、印象として来場者は例年よりもかなり少なかった。街宣車の大音量の演説は聞かれず、いつもより静かな「靖国」の敗戦の日となった。

 昭和天皇が国民に「敗戦」を通知した8月15日から75年の靖国神社に立ってみた。終戦記念日とされる8月15日だが、75年前の沖縄はまだ戦闘が続いて、犠牲者も出ていた。ソ連は宣言受託後に千島列島に侵攻。沖縄では慰霊の日として沖縄全戦没者追悼式が毎年催される6月23日は組織的戦闘が終了した日とされるが、日米で休戦の取り決めなども結ばれず戦闘は続き、それが沖縄戦の犠牲者を増大させる要因にもなった。戦争の終結は9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で行われた降伏調印式であり、沖縄での調印式は9月7日に現在の米空軍嘉手納基地であった。沖縄では8月15日という日が本土ほどあまり意識されていない印象がある。沖縄とは違う東京での追悼する姿があった。

 ◆大村益次郎を見上げて
 

 地下鉄の九段下駅を出て、靖国神社に向かって歩き出す。神社に向かって右側の歩道は左右からビラの配布の手が伸びてくる。「法輪功への迫害」や、ある宗教法人の機関紙、署名活動もある。中国共産党への批判を続けるアナウンスが流れている。「新しい歴史教科書をつくる会」が募金を呼び掛けている。こちらも常連のようだ。

 昨年の同じ場所はもっとごったがえしていた。同じ顔ぶれのほか、政治団体を支援する学生たちが笑顔でパンフレットを配っていた。沖縄からも昨年は、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんらが戦没者遺骨のDNA鑑定を知らせるチラシを配っていた。それと比べると今年は団体の数も少ない。流れる人の数も少ない。

 1番目の25メートルの大鳥居をくぐると高い台にそびえる像が見える。長州出身の幕末の兵学者、大村益次郎だ。戊辰戦争で作戦指揮に当たり、維新後は軍制改革を主導し近代兵制の確立に努め、日本陸軍の創始者とされる。足を止めて記念撮影する人も多い。正午になると、靖国神社の入り口でも立ち止まり、頭を垂れて黙とうする人たちの姿がみられた。日本軍の軍服を着て参拝する人がいるのは例年通りだ。なぜかナチスの軍服姿もいた。なかなか沖縄では見ない光景。「日本軍」に対する思いを見ると、沖縄と本土との違いは厳然とある。それは沖縄戦の中で起こった「集団自決(強制集団死)」などの数々の歴史の経緯から来るものだ。

 神社と平行して走る靖国通りには、機動隊の大型車両が道路両脇に駐車し、道路をふさぐ「蛇腹」を設置していた。例年、辺りを大音量を発して回る民族団体の街宣車への対策だが、今年は、正午をはさんで神社周辺にいたが、街宣車はほとんど目立たず、静かだった。

 神社内では参拝を待つ人が列を作っていた。「感染予防対策中/感染予防のため間隔を空けてください」との看板が数多くあったが、ちょっと「密」では、と思える場所も散見された。

 列の隣を見ると神社の由来を記した「御由緒」があった。「幕末の嘉永六年(一八五三年)以降、明治維新から大東亜戦争(第二次世界大戦)に至るまで、国内外の事変や戦争に際して、戦没された人々の神霊(みたま)をお祀り申し上げている神社です。(中略)二百四十六万六千余柱というたいへん多くの数を数えます」と説明している。起源については、明治天皇が「国家のために一命をささげられた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えようと」創立したのが始まりだという。靖国神社は、禁止行為を呼び掛ける看板で戦没者を「英霊」と呼んでいる。

 沖縄戦での戦没者も靖国神社に合祀(ごうし)されている名簿に掲載されている。軍人だけでなく、民間人も合祀されている。沖縄戦で亡くした肉親を無断で合祀されて、追悼の自由を侵害されたなどとして、沖縄県内の遺族らが神社と国を相手に合祀取り消しを求めて裁判を起こし、最高裁まで争ったが、訴えは退けられた。「英霊」とは誰にとってのものなのだろうか。

 沖縄や硫黄島、南洋諸島、中国大陸、満州―。それぞれの場でそれぞれの戦いがあった。それが「国家のために一命をささげた」とひとからげにされることにはどうしても抵抗を感じざるを得ない。

 ◆光るたまねぎの下で

 日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式を取材した。安倍晋三首相はあいさつの冒頭で「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、遠い異郷の地にあって、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで、無残にも犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」と述べ、沖縄と広島、長崎、東京と地名を挙げた。

 その上で「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます」と語り、遺骨収集への意欲も示した。

 安倍首相に限らず、追悼式のあいさつでよく耳にする「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの」だという類いの言葉が、いつも心に引っかかっていた。

 確かに、先の大戦で多くの人が亡くなった。生き残った人たちが努力を重ね、結果として今の繁栄があるのは事実だ。戦没者の尊厳を守ることを考えれば、そういった思いが誰かしらか出るのは理解ができる。

 ただ、「尊い犠牲の上に築かれたもの」というと、彼ら彼女らの犠牲が、今の繁栄の土台として必要だったような印象を、どこか受けてしまう。

 実際はそうではないだろう。戦争を行わず、戦没者が生き長らえられれば、より多くの人が参画し、よりよい日本をつくった未来があったはずだ。

日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式=15日

 誤った国策遂行、戦争指導の結果として生じたのが「戦没者」だ。本来なら「尊い犠牲」とならずに済んだ命を失わせた責任は、行政府にこそあるのだ。

 その点からすれば、少なくとも行政府の長として、追悼式で戦没者や遺族に伝える言葉に「反省」がなく、「感謝」が適切なのかは疑問が残る。

 天皇のあいさつを聞くと「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」と「反省」に言及していた。

 ◆無名の戦没者たち
 

 武道館での追悼式とは別に、静かでありながら、参拝に訪れる列が途絶えないのが千鳥ヶ淵戦没者墓苑だ。靖国神社から皇居の堀沿いに進んだところにあり、桜の季節も人でにぎわう。

 墓苑は靖国神社とは違い、「先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年3月、国により建設された『無名戦没者の墓』です。(中略)政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです」という目的で造られたものだ。無名の戦没者という点では、沖縄・糸満市にある、戦後最初に誰の遺骨かわからないまま収集してつくられた魂魄の塔を想起させる。

 この日は、天皇・皇后の献花の両サイドに、福岡県と安倍晋三首相、大分県知事、鹿児島県遺族連合会、三重県知事、公益財団法人日本会の花輪が並んでいた。この日、安倍首相のほか閣僚や政党代表らも献花に訪れたが、首相は献花後、記者の問いに答えることなく墓苑を後にしたという。

 墓苑の入り口には、東南アジアの地図が掲げられている。「先の大戦における海外主要戦域別戦没者数一覧図」だ。訪れた人も足を止めて地図に見入って、スマホで写真を撮っている。

 地図には「平成15年(2003年)4月1日現在」の戦没者数として、軍人、軍属、一般邦人合わせて「総数240万人」。「沖縄」とまとめられた地域には「18万6500人」との数字が刻まれている。総務省がホームページで掲載している「沖縄戦戦没者の推計状況」(出典:「沖縄の援護のあゆみ」1996年沖縄県生活福祉部)では全戦没者数は20万656人。千鳥ヶ淵戦没者墓苑の表示も更新されるべきだろう。 「沖縄」の隣には「台湾」は「4万1900人」と記されている。当時日本とされていた朝鮮半島や台湾の出身者の戦没者はどう追悼されているのか。

 墓苑と同じ敷地には、引き揚げに伴う死没者を悼む平和祈念碑と、シベリアや中央アジアなどの強制抑留者の犠牲者を追悼する慰霊碑も建立されている。

 強制抑留者は大戦終了後の武装解除後も現地で強制的にとどめ置かれ、約57万5千人もの軍人軍属のほか民間人もいた。鉄道や森林伐採などの強制労働に従事させられ、極寒の中、多くが亡くなり、現地で埋葬された遺骨はまだ日本に戻っていない人も多い。戦後処理の解決に向け、早期の臨時国会開会で議論を進めるよう求める声が上がっている。

 追悼式での安倍首相のあいさつでは、2013年以降の式辞で触れてきた歴史と向き合う趣旨の文言が消えた。それとは別に、安倍政権で掲げる外交・安全保障の方針「積極的平和主義」が盛り込まれた。未来を見据える立ち位置を強調しながら、ややもすると過去の負の歴史に向き合おうとしない姿勢が内包していないか気になる。戦後75年という節目で何かを総括しがちな空気も感じるが、戦没者の人数にしろ、遺骨の収集にしろ、空襲の民間人被害の補償にしろ、歴史認識や戦後処理は、まだまだ解決すべき課題が残ったままだ。