初代名護市長、渡具知裕徳さん死去 91歳 自然生かし地域活性化「逆格差論」実践


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 1970年に1町4村が合併して誕生した名護市の初代市長として当選後、4期16年、市の発展に尽力した渡具知裕徳(とぐち・ゆうとく)さんが2日午後9時58分、老衰のため名護市内の病院で死去した。91歳。サイパンで生まれ、終戦後、名護市に引き揚げた。喪主は次女田中佐和子(たなか・さわこ)さん。新型コロナウイルスの影響などで、告別式は近親者のみで執り行う。

 都市部から失われた豊かな自然を生かし、産業を活性化させるという「逆格差論」を提唱し、1973年に第1次名護市総合計画を策定した。名護湾の埋め立て地に企業誘致を選択せず、市民が緑や海と親しめる「21世紀の森公園」を整備したほか、地場産業や農業生産を重視し、さまざまな施策に取り組んだ。

 86年に名護市長を退いてからは、ハンセン病や基地問題に注力した。2000年に発足した、ハンセン病国賠訴訟を支援する「ハンセン病と人権を考える会(沖縄)」の代表委員として、国立沖縄愛楽園の入所者らを支えた。

 05年には米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に伴う、ボーリング地質調査差し止め訴訟原告団の団長に就任。辺野古新基地建設阻止に向けた法廷で意見陳述するなど、辺野古移設に反対の立場を貫いた。

 2009年に旭日小綬章を受章した。