学生生活「壕堀りばかりだった」 與座、儀間さんが32軍壕を語る 平和ガイドらの学習会


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首里城周辺の司令部壕について学ぶ学習会で体験を語る與座章健さん(左)と儀間昭男さん=18日、那覇市の養秀会館

 県平和祈念資料館友の会は18日、平和ガイドらが首里城地下の日本軍第32軍司令部壕について学ぶ学習会を那覇市の養秀会館で開き、壕の構築作業をした與座章健さん(91)、儀間昭男さん(92)から証言を聞いた。県内の資料館関係者らが第五砲兵司令部壕や第32軍司令部壕の坑道口数について、証言記録などから説明した。

 與座さんは証言で、1941年に県立第一中学校(現首里高校)に入学したが、学生生活は「壕堀りばかりだった」と振り返った。米軍上陸が目前に迫る45年3月27日、繰り上げで卒業させられ鉄血勤皇隊に配置された。軍から支給された、だぶだぶの軍服を着て、32軍壕南側にある坑道から落盤で崩れた土をトロッコで運び出した。外は砲撃が激しく、米軍のグラマン機が飛んでいた。土を運び出すのは危険極まりない作業だったという。4月末には軍の食料が砲撃で失われ、口減らしのためとして除隊させられた。與座さんは無事家族と落ち合えたが、自宅へ戻る途中で行方不明になった友人もいた。「軍の丈夫な壕と違い、民間の壕は貧弱だった。自分が辛くも生き残ったのは戦争の悲惨さを伝えるためだと思っている」と語った。

 儀間さんは45年3月末、鉄血勤皇師範隊となり、首里城の一角にあった師範学校の「留魂壕」における体験を語った。日本軍の南部撤退で「地獄以上」という戦場を生き抜いた。「戦争は二度とあってはいけない。新しい基地も反対だ」と語気を強めた。