台湾で空襲を体験し、学徒兵として陣地構築に動員された中島政彦さん(89)=那覇市=と家族は沖縄に戻ることができましたが、祖父らは沖縄戦の犠牲になりました。
首里出身の祖父、島袋純孝さんは米軍上陸後に南部に逃れ、玉城村(現南城市玉城)百名の壕に避難していました。その壕を日本軍に明け渡し、農道を歩いていたところ、迫撃砲に遭います。それが元で破傷風となり、77歳で亡くなりました。いとこ叔母も学徒隊として戦場に動員され、命を落としました。
中島さんは祖父の遺骨を探したことがあります。
《父と一緒に祖父純孝の遺骨を収集するために南部へ向かった。途中、高台に登ると兵士の遺骨が至る所にあり、動かすと鉄かぶとの中から頭蓋骨がコロリとこぼれ落ちた。
住民のすべてが食糧の確保に懸命であり、戦死者を丁重にまつる余裕はない。心ある人が遺骨を路肩に並べ、葬ることが精いっぱいの時代であった。》
「平和の礎」に刻まれた2人の名は永遠に残り、平和を希求し続けるものと中島さんは信じています。
《沖縄戦を知らない台湾帰りの私には、親族の一人として弔いと鎮魂の願いがかなえられたものと安堵の気持ちでいっぱいです。》
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中島政彦さんの体験記は今回で終わります。「読者と刻む沖縄戦」はしばらく休載します。