米側の責任追及を原点に 相手の立ち位置判断を 寄稿・我部政明<隣り合わせの危険ー毒ガス移送50年>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
毒ガス兵器の第1次移送時の屋良朝苗行政主席(右から2人目)、ランパート高等弁務官(右端)ら=1971年1月13日、美里村(現・沖縄市)の琉球政府毒ガス撤去対策本部(県公文書館所蔵)

 50年前の1971年、沖縄で毒ガス撤去が行われた。毒ガスとは有毒な化学剤を詰めた弾薬である化学兵器の一般的な呼称だ。この撤去を通じて、沖縄ではどのような歴史的教訓を得ることができるのか。

 幾種類もの化学兵器は、少なくとも1963年から65年にかけて秘密裏に沖縄の知花弾薬庫に運び込まれた。記録によれば、輸送船に詰まれ、陸揚げ後にトレーラーで弾薬庫へ入った。陸揚げ港は不明。那覇軍港の可能性もある。後年の化学兵器撤去のときには、近接の天願桟橋が使用された。秘密裏に沖縄へ持ち込まれた化学兵器を撤去するときには、米側は公開で実施した。

政治的カード

 米側は、旧式化したメースB・ミサイルを1969年12月に撤去する作業を、公開したことがある。当時の佐藤栄作首相の「1972年に核抜きで本土並み」要求に応じて、ニクソン米政権が「核抜き」を錯覚させる政治的効果を狙った。旧式ミサイルの撤去は1969年春までに決めており、沖縄返還合意に合わせた米側の政治的カードだった。

 この化学兵器撤去の公開は、同様に米国の政治的カードとして位置づけられていた。その意味で沖縄での撤去要求にかかわらず、実施すべきことだった。ベトナム戦争での枯れ葉剤使用が国際批判を招いたため、批判を緩和すべくニクソン政権は毒ガス禁止条約(1925年発効)批准の検討している途中に、沖縄での毒ガス漏れ事故(7月8日)が7月19日に米紙で報じられた。7月22日には、時期は明示しないものの、国防長官が沖縄からの撤去を発表した。11月25日にはニクソン大統領が議会に対し毒ガス禁止条約批准を求める声明を出した。

 沖縄で、住民地域の近くで貯蔵される高い致死性のある化学兵器の撤去要求の声が出るのは、当然のことだった。初の直接選挙による行政主席の屋良朝苗は、撤去を繰り返し求めた。屋良の日記によれば、米軍の持ち込んだ兵器の撤去で沖縄の人が一切の被害を受けるべきではないとの一心であった、という。

要求の原点

 米国内の事情で撤去が遅れていた。事故から1年半以上たって米側から化学兵器の搬送計画が沖縄側に明らかにされた。1970年12月11日。実施時期は2カ月以内とされただけで、具体的明示はなかった。同日には、米軍事法廷が糸満で死亡事故を起こした米兵加害者を無罪釈放し、20日にコザ暴動が起り、31日には国頭の北部訓練場の実弾射撃が予定されていた。沖縄の反基地感情が一層高まっていった。当時の高等弁務官ランパートは、1971年1月1日、化学兵器の第1次搬送を1月11日に実施すると発表した。

 屋良はランパートに対し、米国では住民の反対で搬送が中止されるのに、沖縄ではなぜできないのかと強い憤りを禁じ得なかった。ランパートは、沖縄の人々が撤去を要求している以上、負担の一部を沖縄が応じるのは当然だと反論した。ランパートの論理は、化学兵器を持ち込んだ米軍の責任を不問とし、米国が撤去すると公式に声明したにもかかわらず、沖縄側への負担を押し付けるものだった。まさに弱者である沖縄の要求を逆手に取った狡猾(こうかつ)な強者の態度である。

 ここでの教訓の第一としては、持ち込んだ米側の責任を迫り続けることである。ここに化学兵器撤去要求の原点がある。その上で、住民の安全確保やその具体的方法を検討へと入っていくべきだ。この原点から沖縄側の主張が離れると、米側の圧力は増し沖縄から譲歩せざるを得なくなるからだ。

避けたいルート

 第1次の搬送(1971年1月13日から14日)は、米軍が決定したルートであった。ルートに沿って天願桟橋へ向かうとき、登川、池原、栄野比、東恩納の順で住民地域がある。沿道の住民は、屋良に対し、地域沿線の化学兵器積載のトレラー通行中止を要求していた。当初予定の1月11日までに、屋良の住民説得は完了していなかった。米側との協議で2日間の猶予を得る一方で、第2次搬送でのルート変更をにおわせて屋良は地元からの了解を得る。第1次の搬出量は150トン、全体とされた1万3千トンの1%余だった。

 当時の琉球政府は、残りの搬出となる第2次の搬送ルートをめぐって第1次で使ったルートを含む七つの案を米側に提案をした。

 一つの基本ルートは東海岸の天願桟橋へ向かう。追加されたのは、知花弾薬庫に隣接する米海兵隊管理地内の既存、新設の道路を利用する複数の案であった。ポイントは、住民地域を如何に迂回(うかい)するかであった。栄野比の南側あるいは北側へ抜けるルートへと集約された。いずれの場合でも東恩納が沿線の取り残されたままであった。最終的には、費用の一番安いルートの栄野比の南側につながる道路建設の案が決まった。

 もう一つの基本ルートは、西海岸に向かう。嘉手納基地を通過して、砂辺のゲートから軍用道路1号線(現在の国道58号線)に出て南北に分かれる二つの計画であった。南下案は1号線からハンビー飛行場へ運び込む計画であった。当時のハンビーの海岸には火力発電船が係留され発電を行っていたため、その周辺に接岸が可能と見られたのかもしれない。ハンビーへのルートは密集する住民地域と隣接するため、検討初期に見送られた。

 北上案は、陸軍貯油施設に隣接する場所(現在の嘉手納マリーナ付近)に、新たに桟橋を建設し、船積みにて化学兵器を搬出するルートであった。沿線に民間地域はなかった。そのため最も安全なルートであった。琉球政府内で望ましいとされた案であった。ただ、建設の費用と時間に難点があった。さらに、費用も時間もかけたくないランパートにとって、最も避けたいルートであった。

合理的に推測を

 その工事費と期間の見積もりを自ら把握していたものの、琉球政府内でも屋良自身も、政治的な評価の枠組みで検討を加えた様子はない。琉球政府では、住民の避難費用はおろか琉球警察の警備費ましてや住民の休業補償を自前で準備できなかった。また、1969年末から延期されてきただけに、早い撤去の実現を優先せざるを得なかった。

 しかし、米側がなぜ撤去をしなければならないのか、沖縄側が考えておくべきだったであろう。71年6月に予定されていた沖縄返還協定調印への影響を排除したかったからである。その渦中に化学兵器の搬送が検討・実施されていたことを忘れてはならない。沖縄側が、もしこれらの費用を日本政府や米側に支出要請をしないとなれば協定調印がどうなるのか、検討に値した。

 教訓の第二としては、相手が何を最も欲しているのかを探り出す知的作業が不可欠となる。最重要ポイントは、最も欲しいもののために相手はどの程度のコストまで払えるのか、と合理的に推測することである。

 50年前に学ぶとすれば、よって立つべき自らの原点を忘れないこと、合理性に基づいて相手の立ち位置を判断することだ。


 

 がべ・まさあき 1955年、本部町生まれ。慶応義塾大学大学院博士課程中退。琉球大学名誉教授。専門は国際政治。現在、沖縄対外問題研究会代表。