国のため、戦場へ行ったけど…動員「断りきれなかった」 救護班として従軍・大城富美さん<国策の果て>1(前編)


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「子や孫に戦争が怖いものだと知ってほしい」と語る大城富美さん=5月、南城市奥武

 1945年3月23日、米軍の空爆で家を焼かれ、近くの壕に避難していた当時16歳の大城富美(とみ)さん(92)=南城市玉城奥武=を役場の担当者が訪ねてきた。「国の命令だ。救護班へお願いします」。島の若い女性たちに軍と行動し、負傷兵の看護に当たるよう命じた。「国のため、喜んで行きます」。大城さんは答えた。皇民化教育と軍国主義教育を受け「何をするのも国のため」と染みついていた。断ることや嫌だという考えはなかった。43年3月に国民学校を卒業後、役場からの命令で、ずっと小禄や読谷の飛行場建設に従事してきた。これまでの徴用と同様に受け止めた。

 大城さんは、地元の旧玉城村(現在の南城市)に駐屯する独立混成第15連隊(美田部隊)の中隊に配属され、壕で衛生兵から負傷兵の取り扱いや応急処置の訓練を受けた。4月下旬、中隊は首里方面への進撃命令で真嘉比へ。大城さんも従軍し、沖縄戦最大の激戦とも言われた戦闘の中で負傷兵の看護に当たった。

 5月下旬、部隊はほぼ全滅し本島南部に撤退。砲弾が飛び交う中、大城さんも2人の負傷兵の手を引いて必死で歩いた。道には大勢の住民や兵士がけがをして動けず倒れていた。「『国のため』だから怖いとも苦しいとも感じなかった」。

 戦後1960~65年にかけて琉球政府が制作した援護法適格者名簿によると、旧玉城村全体では少なくとも軍人・軍属計663人が死亡。このうち沖縄戦で亡くなった女性軍属は80人。10代が68%を占め、25歳未満は93%にも上る。動員の対象は未婚で子どものいない女性が中心だったとみられる。こうした女性たちは防衛召集の対象ではなく、戦場への動員に法的根拠もなかったが、軍の要請に行政が協力する形で組織的に動員された。

 それは皇民化教育に染まった住民にとっては断ることのできない、いわば“強制”だったと大城さんは話す。「自分でも国のためと、自然にさせられているけれど、あの時はもう断り切れなかったよ。今考えたら、言われた通りにしなければ、生きていけなかったわけよ」
 (中村万里子)


 太平洋戦争で敗戦色が濃い中、沖縄戦に突入した日本軍。人員不足で住民も“戦力”として戦場に送られた。沖縄戦から76年。中学や高校の歴史教科書には「沖縄の住民もよく協力した」などと動員を肯定し戦争を美化するような記述も出ている。国策の果てに住民が経験した動員の実態と背景に迫る。

【後編につづく】非戦闘員なのに入隊、前線へ……

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